わたしの母は自分の姪であってもシスターになった姪たちに対しては格別の愛情と尊敬とをもって接した。
なぜなら、「神さまと約束ばして、その約束ば果たすために日々精進しとっとじゃけん」と母は言っていた。
「人間との約束なら、たがえても、ごめん、すまんですむかしらんばってん、相手が神さまじゃったらゆるされんけんね」とも言っていた。
神父さまに対してもそうであった。
私の幼ななじみでシスターになったMちゃんがいる。彼女とは、私が鹿児島に講演に伺った時に昼食を共にするのであるが、面と向かうと幼ななじみのよしみで「Mちゃん」と気安く呼ぶが、心の中では彼女に対する畏敬の念でいっぱいなのである。
彼女の素顔が光り輝いて見えるのである。
神さまとの約束を日々果たしている人だけに与えられる輝きがそこにあるのである。
母は「シスターはおしろいひとつ、口紅ひとつつけんとに、あげん美しかとは、やっぱりさ、内面からにじみ出るもんがあるけんね」と首をふりふり感心していた。
現世的に見ればしわくちゃ顔のマザーテレサが美しかったのもやはり神さまとの約束を胸に生きていたからだと思われる。
「神父さま方もシスター方も永遠の眠りについたらすぐに天国に行けるとよ。神さまとの約束をこの世で立派に果たしとじゃけん」
しかし、私たちにも望みはある。
聖書の中のマタイによる福音書25章に描かれている最後の審判の時のイエズスさまの言葉を忠実に実行すれば、私たちもイエズスさまの約束してくださったその地に行けるのである。それを信じたい。