人は友達と色々の約束をしながら生きています。守った場合は友情が深まり、生涯の友となる場合もあり、守らなかった友達とは何となく疎遠になっていきます。
そのような人生経験を積むうちに「永遠の命」という言葉があることを知り、高校生の頃洗礼を受けました。新約聖書を読むうちに永遠の命を得るには、とか、信じる者は永遠の命を得る、という考え方が、この世の中にあるんだなあ、と驚きます。
その後、宗教心理学を学ぶうちに、その研究分野に「信じて見えてくるもの、見えなくなるもの」という研究テーマがあることも知ります。
人間の死という課題が、文学の世界だけだったのが、年齢を重ねて、両親や親友たちがこの世から去っていきますと、身近な問題として物凄い迫力で自分に迫ってきます。
「自分の死」を何とか明るいものとして解釈しようと青春時代に負けない迫力で勉強したりするようになります。そして自分流に「人間の死は永遠の命への通過儀礼に過ぎない」と都合のよいように解釈するようになりました。単なる通過儀礼であれば自分の死は怖くないと言い聞かせているわけです。この考え方に近い思想は色々あるようです。
そうこうしているうちにカトリックの祈祷書の中にお馴染みの祈りがあることに気づきました。複雑な私の心境に方向性を与えてくれたのです。「神のゆるしを願う祈り」というお祈りで、いつ頃、どなたがおつくりになったのでしょうか?「これからはキリストに従って生きる者となり真の愛を実践することができますように」という言葉に惹かれ、実践を試みてはいるのですが、さっぱり駄目なようです。しかし、何故か、この挑戦が私の生き甲斐となりそうです。