小児科の待合室で、赤ちゃんを抱いている若いお母さんたちを見かけた。乳児検診の日だったらしい。隣り合って座ったお母さん同士には親しげな会話も生まれていて、幸福が灯ったように待合室は明るかった。
子どもは柔らかな希望の種子である。まだ何ものにも染まらない無垢な赤ちゃんが愛され、守られているのを見る時、私たちはほっとして、不思議なほど満ち足りた気持ちになる。それは私たち人間の本性が善であることの、ささやかな証明のように思う。
フィリピンのスラム街に飾られたクリスマスの馬小屋の写真を見せて頂いたことがある。ごみの中から拾ってきた材料で作ったということで、全てが寄せ集めである。板の壁は倒れないように、水を入れたペットボトルが結びつけられている。馬小屋の真ん中には、派手なお祭りの飾りに覆われた丸いバスケットが置かれている。その中にいるのは褐色の肌をした赤ちゃん人形で、バスケットの両側にいるのは、背の高い東洋の木彫りの像と、ヨーロッパ風の青い目をした少年の人形だった。
だが、この傷んだ人形たちのクリスマスに、私は胸が締め付けられた。これが私たちの本当の姿なのだと思えたのである。ご降誕に集まったのは、捨てられ、傷ついた者ばかり。でも世界中の様々な国から集まったのだ。無垢で無力な幼な子の姿で、キリストは私たちの傷の中に降りて来られた。そして光となって、人々を癒し導かれた。
私たちは皆傷ついた者だ。だが光を知って癒され、恢復する者でもある。・・柔らかい希望の種子である幼な子たちが幸福に育ちますように・・それは私たち癒された者の祈りなのである。