あるとき、仕事で動物園の取材に行きました。楽しみではありましたが、複雑な気持ちもありました。私はどこかで、飼われている動物たちを可愛そうだと思っていたのです。特に、小鳥を飼ったとき、どんなに可愛がっても、我が家としては最大限の遊びスペースを用意しても、結局彼らの自由を奪っていることを突きつけられて以来、その気持ちは強くなりました。彼らと仲良くなればなるほど、彼らを自由にしてあげたいと思ったのでした。
しかし、取材という目で飼育下の動物たちを観察しているうちに、こうした思いがいかに「人間目線」だったかを痛感したのです。
ライオンたちは、午後のひとときを外で過ごす短い間にも、しっかり縄張りを主張し、生々しいお話ですが「繁殖活動」もしていました。フラミンゴたちは賑やかにおしゃべりしていましたが、餌の時間になると一斉に飼育員に集中し、この「相手」に向かってコミュニケーションをとり始めます。サル舎では美しい声のテナガザルたちが数キロ先まで聞こえるコンタクトコールで歌を交わし、狼たちはいつでも草原に戻れそうな立派な遠吠えを奏でていました。彼らは安全な環境を享受し、生き生きと命を輝かせていたのです。
そして、私は思い出したのです。自由を愛した我が家の飼い鳥たちも、同じように輝いていました。籠にいるときも、彼らは私たちを愛してくれました。放し飼いから自分で籠に戻り、囀ってくれました。彼らの命は、どんな環境でも最高に輝いていたのです。
生き生きと時を過ごすなら、輝きは永遠に私たち自身の中にある。取材を終えたとき、私はこのことを地球の仲間に教えてもらっていたのだと、ようやく気付くことができたのでした。