一致を願う

湯川 千恵子

今日の心の糧イメージ

 天地万物の創り主である神様を「アバ」、すなわち幼児が父親に甘えるように「お父ちゃん」と呼びかけなさいとキリストは言われました。

 私たちは一人残らず神様の愛によってこの世に生を受けた。だから人種や階級、財産などに関係なく、天の父である神様の子供として等しく愛され、生かされている存在なのだから、「互いに許して愛しあい、仲良くしなさい」と「愛による一致」を説かれました。

 ところが、こうも言われました。

 「私は地上に平和をもたらすために来たのではない。むしろ分裂だ。一家に五人いれば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれる。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、姑は嫁と、嫁は姑と対立して分かれる」(ルカ12・51~53)。

 何とも過激な言葉です。しかしよく考えてみると、これは見せかけの平和や一致を厳しく糾弾された言葉だと気付きました。うわべは平和な家庭も、一皮めくれば一人ひとりはエゴの塊、感性や価値観が異なります。しかし互いに傷つくことを恐れて殻をかぶり、心はバラバラという関係が珍しくありません。特に「神を信じるか、否か」という問いかけは、大きな対立をもたらします。

 そんなとき、私は思うのです。

 神様を信じようが信じまいが、神様に愛されていない人は一人もいないのだから、どんなに価値観が違う人でも、神様に愛されているその人を、私が同じ人間の分際で嫌い、人格を否定する権利はないのだと。むしろ対立した時にこそ、人間家族の一員として一歩踏み込んで自分とは異なる価値観を理解しようと謙虚な心でコミュニケーションを計り、その違いを多様な豊かさと受け止めて認め合い、尊重し合うことを学ばねばならないのだと。

「愛による一致」は人類究極の目標ではないでしょうか。

一致を願う

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

 私の少女時代、五島福江教会の松下神父さまによくいわれたことは、「線の上に心を置くように。線とは、神さまと人間界との境界線。線の上に心を置く修養をしていると、線の上の世界には何の不安もないから、いつも心おだやかに暮らせる」というものだった。

 つまり、線の上に心を置くと、神さまと一致できるから、いつも平安な心で暮らせるということを教えられた。

 あれから六十年も経った。結婚し、子育てや夫の両親との同居など、努力はしたつもりであるが、やはり、心騒ぐ日々の方が多かったことを反省をこめて思う。

 簡単に一致という言葉は使えないとつくづく思う。夫婦であれ、親子であれ、兄弟であれ、心が一致するということは大変にむずかしいことと思う。

 血縁ですら、そうであるから、他人同士の一致などなおさらむずかしい。隣近所でさえむずかしい。隣国とだってむずかしい。

 私は他人からよく身上相談めいた相談を受けるが、そのほとんどがつきつめると相手と考えが合わないというものである。

 夫婦、嫁姑、兄弟にそれぞれ、伴侶が出来てからのイザコザである。

 自分でさえ悩み多いのだから、的確な回答など、およそ出来ず、申し訳ないが、松下神父さまから教えられた線の上に心を置くことを私なりに精一杯説明する。

 すると、相談相手が何かつきものが落ちたかのように、険しい顔つきがやさしくなり、「いいことを聞きました。今からすぐ実行してみます」と帰って行く。

 今、わかったことは、人間界ではたとえ血縁でも一致はむずかしく、神さまの助けを借りて、一致を願いつつ生きるしかない。


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