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ある人の一言

新井 紀子

今日の心の糧イメージ

 父の話をします。父には、私が生まれてから結婚して家を出るまで、言われ続けた言葉があります。

 夜、10時を過ぎると「さあ寝な寝な、早く寝るんだよ」です。父にこう言われると私たち4人姉妹は読みかけの本、テレビの面白いドラマもあきらめて寝なければなりませんでした。

 父は明治の末に生まれました。第2次世界大戦がはじまると、3回も出征しました。1回目の出征のときです。戦場では食事も寝ることもままなりません。過酷な暮らしが続き、風邪をこじらせ肺炎にかかり、父は日本へ帰されてしまいました。

 長引く戦争のせいで、父は2度目の出征をします。南方へ行ったようです。そこで、今度はコレラにかかってしまいました。激しい下痢と高熱にもう駄目だと思ったそうです。そんな時、幸運にも友人の医者から自分用に持ってきていた薬を分けてもらい、何とか生き延びることができました。次にマラリアにもかかり、日本に帰ってきてからも時々発熱を繰り返したそうです。そんな軍隊生活を送ってきた父は、勉強よりも何よりも健康が第一と考えるようになりました。

 戦争中に結婚し、生まれた子供たち、私の姉たちや、戦後生まれた私たち姉妹にもその信念を貫きました。

 平和になると、世の中の親たちは子供たちにこれからは勉学だと、夜遅くまで勉学に励むように激励したものです。しかし父は違いました。父が言う一言はいつも同じでした。

 「寝な寝な。早くねるんだよ。学校で1番になるより、もっと大切なのは健康だ」

 私たちが結婚し、生まれた孫たちにも言ったものです。

 「僕は子供たちに1度も勉強しろと言ったことはない。『寝な寝な、早く寝るんだよ』としか言わなかったよ。」

 「さあ早く、寝な寝な」。