或るホテルで出版記念パーティが開かれた時のことである。私は出席できなかったので、代わりに花束をお贈りすることにし、その旨を幹事の方に連絡しておいた。ところが当日、何の手違いか、花束はパーティ会場に用意されていなかったのである。
多くの場合、花束が届いていなければ、「きっと送り忘れたのだろう」と思われ、そのままになってしまう。しかし、そのパーティで幹事をつとめておられた方は違った。普段は控えめな方だったが、「花束を届けると聞いている。届けると約束したのだから、あるはずだ。」とホテルに対して主張し、譲らなかったのである。彼女の言葉はホテルのスタッフを動かし、考えられ得る全ての場所が探された。そしてとうとう、通常の保管室とは全く別の冷蔵室の奥で、花束は発見されたのであった。
後からこの話を伺って、私は恐縮したが、それでも信じていただけて嬉しく、人が皆抱えている生きづらさのようなものから、ふっと救われたように感じた。いつもその方は、信頼という灯火で周囲を明るく照らし、人々を励ましておられるのだろう、私もその恩恵に預かったのだとも思った。「約束したのだから、あるはずだ」という真っ直ぐな言葉が輝いて、眩しいほどだった。
自分を顧みれば、「人は信じられないもの」という前提が、心の中のどこかにあることに気づく。用心のあまり人を信じず、自分をも信じない。それが生きづらさの原因だったのかもしれない。人を信じなければ、あるはずの花束でさえ見つけられないのだ。
お祝いの花束を見ると、信頼という恩恵に預かったことを思い出す。そして静かな力が湧いて来る。