希望はここにある

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

 73歳でゆかりの男性が旅立ち、夫とともに葬式に伺った。若い頃から酒に溺れ、妻子に多大な迷惑をかけた人であった。

 酒を飲まない時にはおだやかなやさしい人であるのに、酒が入るとガラリと人柄が変わり狂暴となった。中年になった頃より肝臓を悪くし、それから長い闘病生活が始まった。

 7年前には肝臓ガンになり、あれだけ好きであった酒を断った。それからの彼は妻子、孫にやさしい人となったことは聞いて知っていた。

百聞は一見にしかず。

 最期のお別れの時、棺の中に花を入れたのであるが、その時、娘3人、孫8人、ひ孫3人がわあーわあーと声をあげ、肩をふるわせて泣き続けたのだ。「じいじ」、「じいじ」と呼びかけながら。その嘆き悲しむ姿を見て、私も夫ももらい泣きした。

 人間はいくつになっても成長するのだなあ、病気になり、酒を断ったことでこの人は生まれ変わったのだなあと思わずにはいられなかった。

 若い頃、あんなに恐がられた人が、晩年好々爺になり、みんなに慕われ、愛されていたことが、ゆかりの人たちの涙の合唱によって知ることができた。

 長い闘病生活を働きながら支えたその人の妻は、棺の中の夫に向かって、最期に、「ごくろうさん」、「ありがとうね」と万感の思いをこめて呼びかけた。まさか、「ごくろうさん」やら、「ありがとうね」の言葉が、その妻から出るなど想像もしていなかったので夫も私もびっくりした。

 葬式の帰り、「聖書のことばにもあるけど終わりよければすべて良しってこのことやね」と私がいうと夫もうんうんとうなづいた。

 空を見上げると、この世で浄化された魂が天に昇っていくように感じられた。葬式なのに魂の復活を見たようで心は明るかった。

希望はここにある

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 希望とは暗闇の中の小さな灯である。太陽が照っている昼間にはその灯は見えない。だが暗闇を歩く時、その明りは私たちと共にある。ヘルメットのライトが地下で作業する人々を助け、灯台が船を安全に導くように。それらは誰かが作ったものだ。太陽の熱のように無償で与えられたものではない。希望は人間が勇気を奮い起こして灯すもの、消えないように心を配る大切な明りでもある。

 キリストが十字架にかけられ、葬られた後、弟子たちはどれほどつらい思いをしただろうか。文字通り世界が暗黒になったと感じたに違いない。

 2人の弟子がエマオに行く道中、復活したキリストと出会う。見知らぬ旅人が一緒に歩きながら語ってくれる言葉に2人は感心するが、旅人が甦ったイエス自身であることはわからない。宿に到着して、祈りを捧げパンを裂いた時、突然目が開いたように二人はイエスに気づく。だがそれを悟った瞬間、イエスは肉眼では見えなくなるのである。(ルカ24・13~31)

 主の復活を知った時、2人の心は晴れ、世界は光であふれただろう。それは喜びと希望が生み出した明るさだったろう。その中にイエスの姿は消えてしまう。光の中では光が見えないように。

 その後、多くの弟子たちが光を灯し続け、主の言葉を広めていったのは、よく知られる通りである。彼らの乗り越えた困難を思うと復活を信じ、希望を持ち続けることで生まれる力には感嘆するほかはない。

 2000年の時間を経て今、私たちもエマオに向かう途中だ。2人の弟子と同じに悩みで心は一杯であるし、未熟な短所も持ちあわせている。だがそんな自分たちでも灯せるものがあるらしい。光の中から、それを教えられるような気がする。


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