昨年の誕生日は、一日の出来事すべてが神さまのプレゼントのように感じた。 まず、朝早く友人から、私が書いた本の感想が送られてきた。
「私たちはみな神さまに愛されている。神に望まれたから存在する尊いいのちだ」という部分に感動し、胸が温かくなったという。自分の存在価値を見いだしにくい10代のときにこのことを聞いていたらどんなに救われただろう、と書いてあった。彼女は私のバースデーを知らずにメールした。神さまの粋な計らい、朝一番のプレゼント。
それから職場に行き、先生と短い話をした後、リンゴを一ついただいた。これもバースデープレゼント。午後、大きな手帳を私にくださった人がいた。思わず「今日は私の誕生日なんです!」と言うと、おめでとう、おめでとう、と喜んでくれた。
家に帰ると夫がワインとチーズと美味しいケーキを用意していた。今年はお花がなくてごめんね、と優しい。これは本当のバースデープレゼント。
まるでしんしんと降り続く雪のように、その日はとにかく何もかもが神さまからのプレゼントに思えて嬉しくてニコニコしていた。
朝は目覚めるとすぐに「今日は私のバースデーだわ!」と楽しい気持ちで一日が始まった。
もしも毎朝「私は神さまに愛されて生まれた。今日、神さまは私にどんなプレゼントをくださるだろう、何を私に語りかけてくださるかしら」と期待して一日を始めるなら、人生がまるごと大きなプレゼントになるのではないか。
明日も神さまが私に用意しているプレゼントに期待して一日を始めたくなった。
私は今年、73歳。ふるさとの父は64歳で帰天した。父の年を10歳も超えてしまったのに、いまだに私は父のことを思い出すと、小さな童女に戻ってしまう。
私が何かで喜んでいると、父はその姿を見て、「ミンコの喜びは父ちゃんの喜びたいね」といって一緒になって喜んでくれた。
けいこ部屋に行くと、教え方さまが「神さまに喜ばれる人間になりなさい」、「神さまにほめられる人間になりなさい」と教えてくれた。
三つ子の魂百までと言われるが、私は幼い時の教え方さまの教えや、父の何気ない言葉に支えられて今日まで生きてきたように思う。
私はとりえというものはそんなにないが、「物喜びする」といって、この年になっても他人にほめられる。
ちょっとした物をいただいても、物にその人の心を託して贈っていると思うと、大喜びしてしまうのである。
母は「思わんじゃったら卵1ケも持って来んとよ。思うけん、こげんして持って来るとじゃけん、喜んで受けとらんばよ」といって身を持ってその喜びの姿を私たちきょうだいに見せてくれた。
従って私たちきょうだいは、よく贈り物の送り合いをするが、届くとその度に大喜びしてその喜びを伝える。
物喜びだけではない。
83歳の兄、80歳の姉の心身を心配して電話すると、ふたり共、大喜び。
兄は電話を切る前に必ず「美沙子、おおきにやで、おおきにやで」という。
その喜びの声が嬉しいので、また電話しようと思う。「ミンコの喜びは父ちゃんの喜び」といった父がなつかしい。