よろこび

植村 高雄

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 「生きるよろこび」を心底感じたいけれども、何故、私は感じないのでしょうか?という質問をたびたび受けます。この悩みは私自身が時々陥る悩みです。

 さて、老いも若きも、どんな環境でも生身の人間である以上、この虚しい気分になります。美しい音楽や素晴らしい映画、そして絵画や美しい薔薇の香りなど、日常生活で体験する視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五感からはよろこびがあるだけに、この人生での虚しさは限りなく寂しいものです。これが人間の現実の姿です。

 人生の旅路で時々体験するこの暗い感情は、本来は人々を幸せにする為のシグナルと言われています。暗い感情の日々を長期間送っていますと、本当に人は元気がなくなります。このような心の停滞に陥った場合、当然、「よろこび」の状態から遠く離れ、不安感や怒り、不満、退屈の日々を送り、挙句の果てに、何のためにこんな人生を自分は送らねばならないのだろう、と深刻に悩みます。

 これが人生での難問の一つのようです。ここを乗り越えることは、残酷なようですが、本人にしか出来ません。特に現代の日本社会は高齢化に向かい、認知症等の問題が山積しています。それだけにこの「よろこび」という感情は、とても大切な課題です。

 愛である全知全能の神様が何故、このような精神状態に陥っている人々を黙って視ておられるのでしょうか?

 喜びを感じる方法という本は山ほどありますが、中々、本の通りにはいきません。愛の孤独感が最大の原因ですが、周囲の人々との親密性を見直し、天にむかって「この虚しさは何故でしょう、あなたの愛を感じさせて下さい」と叫びますと、案外、インスピレーションのような答えがすぐかえってくるようです。

よろこび

岡野 絵里子

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 生きるよろこびについて考える時、どうしてもこの人物を思い出さずにはいられない。宮沢賢治の童話「虔十公園林」の主人公、虔十である。虔十は「縄の帯をしめ」「杜の中や畑の間をゆっくりあるいて」いて、世間の人々とは少し違っている。彼は雨に濡れて青くけむる藪や、空を駆ける鷹を見ては、跳ね上がって大喜びをする。特に、風に吹かれたぶなの葉が揺れて光る時などは、嬉しさのあまり笑いながら「いつまでもいつまでも、そのぶなの木を見上げて立っている」のだ。

 虔十は樹木や鳥たちに生命の美しさ、力強さを見、彼らの生きるよろこびの声を聞いている。世界は何と光にあふれていることだろう。虔十の身体からもよろこびがあふれ出す。触らないのが無難なのである。

 虔十は杉の苗を両親に買ってもらい、野原に植えて、杉林を作る。利益を生まない、美しいだけの林である。虔十はこの杉林をよく手入れして清潔に保ち、晴れの日も雨の日も見守ってよろこんでいた。子どもたちが遊びに来れば、なおよろこんで笑っていた。人はよろこびをもたらしてくれるものを、そばに置いておきたいものだ。離れて住んでいる子どもや孫たちの写真を、祖父母が部屋に飾っておくように。虔十は美しい林を作って、自分のそばに置いたのである。そこは、この世の役には立たない分だけ清らかな、彼の魂のような場所だった。

 この童話を読むと、なぜか「人には魂というものがあるのだ」と大声で言いたくなる。それから、「生きることをよろこんでいたい、一本の野の花のように」と小さな声でつけ加えたくなる。


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