希望はここにある

崔 友本枝

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 「神は実りある人生を愛するが、実りをもたらさなかった人生も愛する」。この言葉を読んだ時、私ははっと胸を突かれました。

 神は、目に見える結果で判断なさらないのだ、神が「よし」とされるのは違う基準だと感じたのです。

たとえば、科学者や俳優などになって歴史に残る実績を出すと、夢をかなえた人、人生に成功した人だと私たちは考えます。それはそれで立派です。しかし、懸命に努力し、誠実に生きようとしたけれども複雑な状況が起きて人に利用されたり、健康を損なったりして、人生が違う方向に進む場合もあります。こんなはずではなかったと懸命にもがいてもそのまま人生を終える人がいるのです。そのような人の一生は、何をもって意味があったと考えればよいのでしょうか。

 私の父がそうでした。絵や詩作の才能を持ち、健康に恵まれ大きな仕事をしていましたが、人にだまされて財産をすべて失い、残ったのはアルコール依存症との闘いだけでした。しかし、父は同じようにアルコール依存に苦しむ仲間をいつも家に招き入れ、「一緒にがんばろう」と言って食事を作って力づけました。また、父はすべてを失ったので、すべてを失った人の友になりました。ご主人が借金を作って失踪し、途方に暮れていた時に、家によく来て話を聞いてくれた、と父の葬儀の席で泣きながらお礼を言われたこともあります。父は自分の苦しみに閉じこもらず、他の人の苦しみにも心を開いていたのでしょう。

 人生の目的は、「愛すること」です。神さまは心に愛がある人に「友よ」と言ってくださる方です。私たちを愛し、十字架にかかって死に、復活した方、イエス。この神さまの目から見ると、父の人生は大成功だったと私は信じています。

希望はここにある

阿南 孝也

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 神のみ言葉によって、苦しみに耐えて生きて行く力を与えられた二人の話を紹介します。

 一人目は、重い病の床にあった妻を見舞いに来てくれた目の不自由な女性です。彼女は白い杖を頼りに、一人で電車とバスを乗り継いで来てくれました。クリスチャンの彼女と、イエスのご受難の話をしました。主イエスが目隠しをされて殴られ「だれが殴ったか言い当ててみろ」(マルコ14・65)と侮辱されるお姿に、彼女は涙が止まらないと話してくれました。

 行動力に富んだ彼女だけに、危険な目に合うことや、くやしい思いをすることが多かったことでしょう。理不尽な扱いに対して、目をふさがれたイエスが、無言で耐え忍んでくださったことが、彼女にとって何よりの慰めと希望となっていたのです。

 二人目は寝たきりだった妻です。ある時、妻のほおの上にハエがとまったのだそうです。全身動かすことができず声も出せない妻は顔の上を歩きまわるハエを追い払うことができなくて、屈辱のあまり涙ぐんでしまいました。

 ところがその時、ふとイザヤ書の次の言葉が心に浮かんだのです。「私は逆らわず、うしろに退きもせず、 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。しかし、神である主は私を助ける」という、イエスのご受難の姿を指し示す言葉です。(50・5~7)

 「イエス様は私の気持ちをご存じだった。しかも背中に襲いかかる激痛も合わせてご存じだった」。主が共にいて助けてくださると気づいた妻は、悔し涙が感動の涙にかわったのでした。

 主イエスが苦しみを共に担ってくださることは、私たちの大きな慰めです。ですから、どのような困難に出会ったとしても、勇気と希望を失うことなく生きてゆけるのです。


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