生きるよろこびについて考える時、どうしてもこの人物を思い出さずにはいられない。宮沢賢治の童話「虔十公園林」の主人公、虔十である。虔十は「縄の帯をしめ」「杜の中や畑の間をゆっくりあるいて」いて、世間の人々とは少し違っている。彼は雨に濡れて青くけむる藪や、空を駆ける鷹を見ては、跳ね上がって大喜びをする。特に、風に吹かれたぶなの葉が揺れて光る時などは、嬉しさのあまり笑いながら「いつまでもいつまでも、そのぶなの木を見上げて立っている」のだ。
虔十は樹木や鳥たちに生命の美しさ、力強さを見、彼らの生きるよろこびの声を聞いている。世界は何と光にあふれていることだろう。虔十の身体からもよろこびがあふれ出す。触らないのが無難なのである。
虔十は杉の苗を両親に買ってもらい、野原に植えて、杉林を作る。利益を生まない、美しいだけの林である。虔十はこの杉林をよく手入れして清潔に保ち、晴れの日も雨の日も見守ってよろこんでいた。子どもたちが遊びに来れば、なおよろこんで笑っていた。人はよろこびをもたらしてくれるものを、そばに置いておきたいものだ。離れて住んでいる子どもや孫たちの写真を、祖父母が部屋に飾っておくように。虔十は美しい林を作って、自分のそばに置いたのである。そこは、この世の役には立たない分だけ清らかな、彼の魂のような場所だった。
この童話を読むと、なぜか「人には魂というものがあるのだ」と大声で言いたくなる。それから、「生きることをよろこんでいたい、一本の野の花のように」と小さな声でつけ加えたくなる。