よろこび

シスター 山本 久美子

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 昨年、日本を訪問された教皇フランシスコは、キリスト者であるかないかに関係なく、多くの人々に温かな印象を与えてくださいました。

 教皇様の多くのメッセージのテーマは「生きる力」、真の「よろこび」です。

 ルカ福音書は、聖霊によって喜びにあふれるイエスの姿を描いています。イエスは、「幼子のような者にお示しになる」神の御心をほめたたえ、喜びにあふれました。教皇様が私たちに伝える喜びも、このイエスの喜びにつながっています。

 新約聖書は、イエスの宣教活動を記しています。活動のはじめこそ、多くの人々がイエスをもてはやし、受け入れましたが、やがて、多くの人々が、イエスの生き方、言葉や教えにつまずき、イエスから離れていきました。それどころか、敵対し、批判する人々も多かったのです。

 しかし、律法を守れず、罪人というレッテルを貼られ、社会の片隅に追いやられた人々は、イエスを、生きる力や希望を与えてくださる真の「救い主」として受け入れました。それに対して、イエスを批判し、十字架まで追いやった人々は、自分の利益や名誉、社会的地位や富を守り、築くことを望む人々でした。彼らは、しばしば自分の立場や偽善的行為を「自分の正しさ」と思い込んでいました。しかし、イエスは、罪人であることを自覚し、神のいつくしみに身をゆだねることしかできない、幼子のような人々こそ、神様が一人ひとりの存在を根底から愛され、ゆるされていることを示す存在であると、御父をほめたたえたのです。

 教皇フランシスコも、すべての人々が、例外なく神に愛されていることに気付き、「喜び」をもって豊かな人生を送るようにと励ましておられるのです。

よろこび

松浦 信行 神父

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 20年ほど前に私は4つの教会を3人の神父で、共同して担当していました。初めは、3人で一つの教会で暮らしていたのですが、教会の管理の問題で私は、そこから電車で20分ほど離れた教会に一人で住むようになったのです。

 そしてしばらく経つと、ほかの2人の神父に比べて私は朝が弱いことがわかってきました。時々寝坊をして、朝のお務めであるミサという祈りに遅刻するようになったのです。

 それで、私は一人の早起きの主婦の人に頼みました。「すいません、私はどうも朝が弱いようなので、朝の6時に電話で呼び出していただけますか?私はそれを聞いて、受話器を1度取ってすぐに受話器を戻します。私が電話を聞いたというしるしです。電話代は私が払いますからお願いします。」「それぐらいはたやすい御用です」とその主婦の方は私の頼みを聞き入れてくださったのです。そのおかげで、私はしばらく、朝の遅刻はなく、皆に迷惑をかけずに順調に生活をつづけました。

 ところが、ある朝私はとても疲れていたらしく、その電話に出ることなく、はっと気が付いた時には、遅刻寸前でした。そして急いで洗面をして出かけようとしたその時、玄関のベルが鳴ったのです。この忙しいときにと思って玄関の戸を開けたとたんに、いつも朝目覚まし電話をかけてくださる主婦がそこに立っていました。そして「あっ!神父さん。無事だったのですね。」とその場にへたり込んでしまいました。

 目覚まし電話の了解の合図が無かったために、私が倒れたと思い、急いで電車に乗って駆け付けてくださったのです。その時、「私は、信者さんから大切にされている」と身震いするほどの感謝の喜びに溢れ、私の思い出の宝となったのです。


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