希望はここにある

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 近頃、若い人の口から「自分は社会の役に立っていない。生きる意味がない」という言葉を聞くことがよくある。殺伐とした競争社会の中で、生きる意味を見失う若者が増えてきているのかもしれない。

 そんな言葉を聞くとき、私は昔出会った一人の女性を思い出す。もう死ぬしかないとさえ思うほどの絶望の中から立ち上がったという彼女は、きらきら輝くような笑みを浮かべながら、私に次のように言った。

 「誰だって、自分があげた贈り物を喜んでもらえればうれしいでしょ。私の命は神様からの贈り物。投げ捨てれば神様は悲しむだろうし、がんばって生きれば神様はうれしいだろうと思ったの。」

 その言葉を聞いたとき、私はハッとした。確かに、彼女の言うとおりだろう。社会の役に立たなくても、いつも失敗ばかりでも、ともかく自分なりにがんばって生きていればいい。そうすれば、そんな私たちの姿を見て、神はきっと喜んでくれるに違いない。一生懸命に生きて神を喜ばせること、それこそ私たちが生きる意味なのだ。

 神から与えられた命は、実は神の命の一部でもある。天地創造のとき、まだ土くれにすぎなかった人間に、神がご自身の命の一部を吹き込んだことで人間は生きるものとなった。復活したイエスの命は、命が本来持っている輝き、神の栄光の輝きを放った。私たちの命の中には、神の命が宿っているのだ。鼓動する私たちの心臓の中に、流れる血潮の中に、肌の温もりの中に、神がおられる。そう思えば、この命がますます愛おしく感じられる。

 社会での激しい競争や、人々の言葉に傷ついたとき、私たちの命が神からの贈り物であること、神の命の一部であることを思い出したい。今ここに生きている、そのこと自体に希望がある。

希望はここにある

村田 佳代子

今日の心の糧イメージ

 希望が叶う時、意外に身近に希望するものや事があり、「灯台もと暗し」という事態の時、希望はここにあると云えるのでしょうか。

 希望と夢はよく似ていますが、微妙なニュアンスの違いがあります。

 希望は文字通り、のぞみ、ねがいのことです。夢となると時の長さが加わり、将来実現したいと思っている希望、叶いそうもないはかない願いなど、遠い先のことで漫然としています。希望は日程や好みなど、身近なことにも使う言葉です。希望の光とか希望の星というように、希望はまっすぐな光を放ち、虹色の夢というように夢は多彩で、あいまいな雰囲気を持っています。

 ある時私は訪問先のお宅に飾られていた書の額を見て、まるで捜し物を見付けたような喜びを感じました。

 「夢がある

  夢を持ったら 計画を立てる

  計画を立てたら 実行する

  実行したら 反省する

  反省した実行は 実績になる

  実績は 信頼を生む

  信頼は 人を集める

  人が集まり 夢が広まる」

 夢でも希望でも冷静に計画し、出来ることから実行に移さなければ、何も始まらないのです。書の額の言葉には夢が実現する手順が私の希望通りに説かれていました。

 希望通りといえば、キリスト教の信仰の説明を求められると、私は決まってパウロが書いたコリントの信徒への第1の手紙、15章12節から説かれている死者の復活の箇所を示すことにしています。

 「最初の人アダムによって、全ての人が死ぬことになったようにキリストによって全ての人が、生かされることになったのです」(22節)

 

 キリストの復活こそが人類の希望なのです。そしてより多くの人が、この希望に気付くことを祈り、夢見ています。


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