「主において常に喜びなさい」この言葉は、新約聖書の「フィリピの信徒への手紙」の一節です。それは次のすばらしい言葉の前に、著者のパウロが書いている言葉です。少し長いのですが、引用いたします。
「重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えを守るでしょう。」(4・4~7)
昨年の11月26日、訪日されたフランシスコ教皇が東京にあるイエズス会の修道院で、朝、私たちイエズス会員と一緒にミサを捧げました。その時、朗読されたのが、この箇所でした。そして、これに関連して、教皇は、私たちに「希望と喜びをもって、伝道するように」と励まされました。
喜びは神さまの恵みですが、自分が神の大切な子どもであることを信じ、本来、完全で、充分であることが分かれば、何も心配することがなく、思い通りに生きていかれるでしょう。そのためには、自分の内面にこそ、神さまが現存され、私たちを抱擁し、愛しておられることを実感できなければならないでしょう。それには、一日に15分間でも独りで静寂の中に留まることです。これは瞑想といってもいいでしょう。余計な考えは脇に置き、できるだけ何も考えずに、ただ静かに坐っているのです。そして思いも望みもすべて神さまに委ね、お任せするのです。そうすれば、自然に深い喜びと平安を経験するでしょう。
ヨーロッパの建築現場で同じ作業をしている労働者たちがいました。
「あなたは何をしているのですか」
そう尋ねると、一人の労働者は不機嫌そうに言いました。
「見てわからんのか。レンガを積んでいるんだ」
別の人に同じことを聞いてみると、元気なく答えました。
「生活するために金をかせいでいるんだ」
今度は、活き活きと働いている人に尋ねてみると、笑顔で答えました。
「神様や人々のために大聖堂を造っているのですよ」
その人は出来上がった大聖堂で多くの人が祈っている姿も思い描いていたかもしれません。
ところで、私たちはどのような心で日常の仕事をしているのでしょうか。仕事に喜びがあるでしょうか。
仕事には楽しいことばかりではなく、単調で退屈で面白くもないこともあるでしょう。苦労や疲労が伴うこともあります。
しかし、仕事は神の賜物であり、祈りになりえます。
神御自身がこの世を創造する仕事をされました。そして、私たちがそのみ業に参与することをお望みになり、仕事を通して私たちを幸福にしたいと思われました。
また、イエス・キリストはナザレでの隠れた30年間、大工の仕事に打ち込まれました。それは、私たちの模範となるためです。
そして、聖母マリアも、家庭の主婦として平凡な家事や雑事を愛をもって果たされました。それが神さまのみ心だったのです。
聖ヨセフも、神の御子の養父としての使命を知りながら大工の仕事を一所懸命果たしました。それが、神に仕え自分の聖性を高める道だったのです。
私たちも聖家族のように、仕事を通してまわりの人や神に仕えることができます。神や人から喜ばれ感謝され、自分の喜びも生み出すことができるのです。