日本にキリスト教を伝えて下さったフランシスコ・ザビエルの生誕地、スペインのザビエル城に、「微笑みの十字架」という十字架像があります。十字架上で筆舌に尽くし難い苦しみを経験されたイエス様が、何と十字架上で微笑みを浮かべていらっしゃるのです。何故それがお出来になったのか。想像の域を超えるものではありませんが、私は次のように思います。それは、「成し遂げられた」(ヨハネ19・30)と十字架上で仰ったイエス様の思いが、表情に現れたのではないかと。
例えばアスリートの方々は、大会を目指して苦しい練習を続けます。本番で練習の成果を出し切れたならば、「やるだけやった」と言う喜びが込み上げて来るに違いありません。
使徒パウロは、次のような言葉を残しています。「あなた方は知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を得るように走りなさい」。(1コリント9・24)また、目標に向かって走る事の大切さを、次のように述べています。「だから、私としては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」。(同9・26)
このような生涯を送ったからでしょうか。パウロは、人生の最後が近づいた時、次のように言っております。「世を去る時が近づきました。私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」。(テモテ4・6~8)
神様は、私達一人一人が、この世でも次の世でも、幸せになる為の計画をして下さっています。その道を見出し、ひたすら走り続ける事の中に、本当の生きる喜びがあるのではないかと思います。