幼きイエス様が現代に生きていらしたら、ボール遊びもなさった事でしょう。ただボールは、玩具となる為に空気が必要です。
聖書の中で、空気の動きを現わす、風、息吹、息等の単語は、ヘブライ語やギリシャ語で、霊と同じ言葉が使われています。
創世記には、神が人を「土の塵」で形作り、「その鼻に命の息を吹きいれられ」、人が「生きる者となった」と記されています。(2・7)それゆえ、「霊が人間を去れば、人間は自分の属する土に帰り、その日、彼の思いも滅びる」と詩編作者は語ります。(146・4)
それでは、どのような時、霊が人を去るのでしょうか。この事を如実に表しているのが詩編51です。詩編51は、ダビデが大罪を犯した後、その罪を預言者から指摘された時、唱えた祈りとされています。
罪を犯し、神の霊が取り去られると感じたダビデは、痛悔と罪の告白に続き、次のような祈りを唱えました。「御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないで下さい」。(13節)
私達は、神の道から外れて行くと、空気の入っていないボールのようになり、私達に本来委ねられている使命を果たす事ができなくなり、惨めな人生を歩む事になります。そのような時、悔い改めて神に立ち返る事によって、私達は罪の赦しと新たに出発する機会を頂きます。それはあたかも、しぼんだボールに再び空気が入れられ、幼きイエス様の遊び道具として、再度活躍するのに似ています。
ただその時、赦しを受けた者として使命も受けます。イエス様は弟子達に言われました。「誰の罪でもあなた方が赦せば、その罪は赦される」と。(ヨハネ20・23)それは、神様から受けた赦しによって、私達も赦し合う使命なのです。