今から30年近く前のことです。神父になる直前に、1か月間の黙想を命じられました。正直に申し上げるならば、いやいやでしたが、仕方がありませんでした。
祈りの日々を送るうちに、自分は神父にふさわしくない、ということが次から次へと思い浮かんで来ました。季節はまだまだ寒い冬の終わりでした。
祈りの合間に、毎日、近所を散歩していました。吹く風はまだまだ冷たく、目にする木々や草花も死んだかのように見えていました。
ところが、日が経つにつれて、少しづつ春の兆しが見え始めました。吹く風は柔らかくなり、どこからか鳥のさえずりが聞こえはじめ、木々には小さな芽が吹きだし、草花には緑の色が甦ってきていました。
冬の間、死んだかのように見えた自然は、確かにその中に命を保ち続けており、厳しい冬を乗り越えて、再び息吹を吹き返したのです。
このような自然の移り変わりを目の当たりにして、自分は神父にふさわしくない、という思いの中にふさぎ込んでいた私でしたが、こんな私の中にも、確かに神の招きと恵みはあるのだ、と気づかされた出来事でした。
使徒パウロは言います。「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。」(ローマ 11・29)
自分の足りなさ、弱さを十分理解させていただいた上で、神さまの恵みによって、その招きに応えよう、と思えることのできた体験でした。
それから、様々な壁にぶつかる時に、この体験を思い起こしています。自分自身が死んだかのように見える時でも、私の中に確かに宿り続けている神の賜物と招きを確認するのです。
神さまが与えてくださる恵みと招きは取り消されません。絶えずそこに目を注ぎながら、日々生きていく力をいただきたいと思います。