最近の報道等を見ますと、それこそ「歓迎」できる内容のできごとが少なくなったような気がします。連日、悲惨な事件事故が、新聞紙上を賑わせているようで、寂しく、悲しくなります。
そういった出来事の一つで、わたしの記憶に残っている悲惨な事件に、「京都アニメーション放火事件」がありました。日頃から、アニメに親しんでいなかったわたしですが、この事件で新たなことに目覚めさせていただきました。
「京アニ」として親しまれていたのは、国内だけでなく、地球規模であったということでした。それに、多くの方々が同社の作品に生きる力をいただき、救われていたという事実です。
あの当時、「自分の町内に、これほどの会社が存在していたなんて、誇りです」という住民の方のことばも印象的でした。
決して、この事件は歓迎される出来事ではありません。それだけに、一層悔やまれます。
一方で、これまでも感じてきたことですが、「歓迎される」出来事というのは、知られにくい、広まりにくいということがあるのでしょうか。悲惨な事故から見えてきた、アニメーションによって、「救われた人々」の実態は、それまで報道されることはありませんでした。ご本人だけが知っていることです。これこそ、喜ばしく、大いに迎え入れたいことだと思います。
わたしたちの中に、ごく当たり前のことに対して、心が揺り動かされるところはないというのでしょうか。そうではないはずです。当りまえのことを、「有難い、大歓迎します」という思いで見直してみることもあっていいのではないかと。
「歓迎する」ことは、つまりは、日常的な営みの中で培われていく「心の感覚」ではないかと思うのです。