最近テーマとして与えられた、「歓迎する」と言う言葉は、私の人生を刺激的にちくりちくりと追い込み、悩まされましたが、その反面、私に不思議な感動と美しい想い出を湧き出させてくれました。
私は17才の時に洗礼を受けました。その頃毎日、不思議な神様の存在が頭から離れず、嫌いな相手の場合でも今までとは違う付き合い方を考え始めました。洗礼を受ける前は、よく喧嘩をして、負けそうな時は、直ぐ逃げ出していたのですが、洗礼以来、待てよ、と冷静になりだしていたようです。
私にとって昭和20年代の後半が青春時代ですが、勉強にうんざりして喧嘩ばかりしていた頃です。自己嫌悪と劣等感、希望の無い青春。
そんな折に、不思議な神様だなあ、と感じた一つは、生意気で不遜な高校生の私を「大歓迎してくれているよ」という神父さんのお話でした。本当かなあと、いつも疑っていました。こんな変な高校生を無条件で受け入れるはずがないと信じていたからです。
こんな状態で日本の大学に入り、神様を忘れたような、自由で楽しい大学生活を終え、社会に出ます。
海外での厳しい勉強や仕事の体験に遭遇するたび、今思うに、いつもあの神父さんの助言、困ったら神様の名前を叫びなさい、というアドバイスを実行していたようです。「どんな時でも神様は君を歓迎しているよ」というあの神父さんの言葉が私を支えていたようです。
変な私を歓迎してくださる神様に倣い、私も、私を頼りにして訪ねて下さる大勢の方々を大歓迎したいと思いますが、あのようには歓迎していない自分がいます。
心から人を歓待しお迎えする難しさをしみじみ反省する日々です。