それは私がカトリック施設の老人ホームで働いていた頃の、ある場面でした。昼食を終えた認知症状のあるシスターの車椅子を押しながら、私が休養室の扉を開けたとき、普段は話さなくなっていたシスターが思い出したように、「ものごとは、すぐにはすーっと、いかないの」と、言いました。突然の言葉に私はただ、「そうなんですね」と応えることしかできませんでしたが、15年以上前に聞いたその声が、なぜか今も記憶に残っています。
これまで歩んできた道をふり返ると、仕事も夢も人間関係も、確かに最初から思い通りにはいきませんでした。ですが、あの日のシスターの言葉を思い巡らせると、当時、不器用に働いていた若い私に語りかけたシスターの真意は逆で、「すぐにはすーっといかなくても、あきらめないで」と言いたかったのではないか...と気づくのです。
例えば結婚生活においても、夫婦がお互いの性格をよく理解して絆が育まれるまでには、晴れの日も雨の日も共に歩み続ける年月が必要です。それは他のことでも言えるでしょう。最初は上手くいかなくとも、七転び八起きの道を歩み続けるうちに経験が生きてきて、段々と周囲の風景も見えてきて、気がつくと長い道を歩いていた――と知るのではないでしょうか。
そのシスターが天に召されてから十数年になります。今では「すぐにはすーっと、いかないの」と言いながら、なぜかニコッとしたシスターの可愛らしい笑顔が、瞼の裏に浮かびます。
人は誰もが、ときに転びながらも夢や目標を失わず、歩み続けること自体が大切です。無心で歩いているとふいに追い風の吹くことがあり、その時こそ、冷静に目標を見据え、ひたすら前へ進みたいものです。