なつかしい

崔 友本枝

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 初めての教会でも、聖堂に入るといつもなつかしさを感じます。確かに神がおられる、という存在感が香りのように届くのです。

 なつかしいという思いは、以前出会ったことがあり、その人を知っていることから生まれる感情です。私はどこで神に出会ったのでしょう。

 一つは、聖書に表れるイエスの行動や言葉を想像し、味わうことによってです。例えば、イエスが湖でペトロの舟に乗り、神の国について群衆に語る場面があります。(ルカ5・3)そこでは、心地よい朝の風に吹かれ、イエスの髪がなびいているのが目に浮かびます。群衆は岸辺にいるので少し離れていますが、イエスはよく通る声の持ち主だったのでしょう。人々は朗々と語る彼の話を夢中になって聞いています。

 別の箇所では、日差しを浴び、砂ぼこりにまみれた足を前へ前へと進ませている姿があります。ヤイロという人に頼まれて、病気の娘に会いに行く場面です。息を引き取った少女の手を取って、「起きなさい」と言うと少女は起き上がりました。イエスは食事を与えるように言ってそっと立ち去ります。(マルコ5・21~43)

 福音書は、イエスが人々に注ぐ温かなまなざしで輝いています。その心の美しさに触れた人は彼を好きになるでしょう。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」という聖パウロの言葉があります。(2コリント8・9)それはイエスのことです。

 神がどんなに私たちを愛しているかを伝え、私たちがそれを知って本当の命を得るためにイエスは人となられました。そして、命を投げ出してくださったのです。これを思うとイエスへの感謝と慕わしさで胸がいっぱいになります。

なつかしい

末盛 千枝子

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 もうずいぶん前ですが、思いがけない時に、本当になつかしい思いをしたことがあります。初めて外国旅行をして、最後に聖地に行きました。その頃、パレスティナと言えば、エルサレムとか、あの辺りの聖書の土地という意味でした。まだ、今のようにひどい戦争になってはいませんでした。それでも、イスラエルと周辺の国とは緊張した状態でした。

 私はローマからの帰りに、もう二度とそのような機会はないだろうからと思い、エルサレムに寄ったのです。ローマから飛行機を乗り継いで、ヨルダンのアンマンに入り、そこからエルサレムに入りました。その途中で、ロバに乗った人たちに、何度も会いました。そのとき、「ああ、キリストが歩かれた土地に来ているのだ」という感激がありました。特に、ロバに乗っている人たちをみると本当になつかしい気持ちがしました。なぜだろうかと考えたのですが、それはきっと、ロバに乗ったイエス様の姿を、子どもの時から目にしてきたクリスマスのお話とか、美しいカードなどで見慣れていたからだと思います。初めての土地なのに、心からなつかしいと思いドキドキしたことが忘れられません。初めての土地なのに、あのように思ったことはその後、一度もありません。本当に不思議な、なつかしさでした。

 それだけに、今、あの土地が、本当にひどい状態におかれていることをたまらなく悲しく思います。もしかしたら、これは、今も、イエス様が人々のために苦しんでおられるということを示しているのかもしれません。あの辺りで、今もロバに乗って、のんびりと歩いている人を見ることは出来るのでしょうか。

 きっと難しいのでしょう。悲しいことです。


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