共にいる神、ということを考える時、私はクリスマスについての聖書の記述を思います。なぜなら、ここにとても好きな言葉が出てくるからです。
マリアが身ごもったことを知って、ヨゼフが悩み、許嫁のマリアを密かに離縁しようとした時のこと、天使が彼の夢に現れて、事の次第を説明する時のことです。そこに、生まれる子どもを「インマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられるという意味である。」(参・マタイ1・23)
そうなんです、幼子はインマヌエルと呼ばれるのです。このことによって、クリスマス以来、神は我々とともにいるのでしょう。
これはなんと素晴らしいことでしょうか。
私たちは、困難にあった時に、神様が共にいて下さるということを思わないでは、歩き続けられないのではないでしょうか。そしてそこにこそ、聖霊の働きがあるのだろうと思います。そして、神様が共にいて下さるのであればこそ、考えられないような困難にも耐えられる、あるいは、それを受け入れ希望して生きていけるのだと思うのです。そして、たぶん、神様が共にいて下さるということなしには、人に優しくすることも、人を愛することも、人を許すことも出来ないのではないかと思います。
しかし、そういうことを特に考えなくても良いほど、生まれながらに、とても良い人もいます。でも、きっとそういう人は、気がつかないうちから神様がともにいる人なのではないかと思います。そういう人はどんなに幸せな人かと思いますが、でも、もしかしたら、そういう人にも、私たちにはわからない困難があって、そっと神様がそばにいらっしゃるのかもしれません。
このごろあまり聞きませんが、守護の天使とは、きっとそういう役目をするのではないでしょうか。