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共にある

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 私達は、大きな苦しみの時、誰かが共にいてくれる事によって救われる事があります。けれども同時に、苦しむ人と同伴する事の難しさも、私達は良く知っています。旧約聖書の中のヨブ記には、その事が良く表現されています。

 全財産を失い、病気にもなったヨブを見舞いに来た3人の友人は初め、沈黙の内にヨブに同伴しますが、一週間を過ぎた頃から沈黙している事に耐えられなくなり、ヨブに説教をし始めます。それがヨブの感情を害し、口論になっていきます。ヨブを慰める為にお見舞いに来たのに、慰めるどころか、逆にヨブをもっと苦しめることになります。苦しむ人に、沈黙の内に寄り添う事の難しさを感じます。

 以前、ある神父様が、ヨーロッパの薬物依存症治療の病院での出来事を分かち合って下さった事があります。その病院を見学された時、この神父様は、一人の依存症患者の青年が、ベッドに縛られ、禁断症状に喘いでいる姿をご覧になりました。ただ、その青年は、一人ではありませんでした。ベッドの傍らにその青年のお母様が、苦しそうな表情を浮かべて、共にいらしたのだそうです。禁断症状の苦しみから解放してあげる為には、薬物を上げれば良いのですが、それは出来ない事です。我が息子を、助けたくとも助ける事が出来ない。回復の為には、時間が経過するのを待つしかない。そのような状況だったに違いありません。

 聖書の中の神様は、しばしば「インマヌエル」(共にいる神)と呼ばれます。神様は、この母親のように、私達が苦しむ時、共にいて下さるのだと思います。そして、その苦しみが私達の救いの為に必要ならば、傍らに居て、黙って共に苦しみ、寄り添っておられる、そのような神様なのだと思います。