

私何時の頃から「待ち望む」という言葉や考え方が私の心の中に生まれたのだろう?幼稚園や小学生のころ、五人兄弟の末っ子の私には、このような考え方はありませんでした。ひたすら母親や10歳も上の兄や姉に甘えて育ったようです。
ですから、いつも思い通りになっていたようで、「待ち望む」という感情は記憶になく、好きなものはいつでも与えられていた子が社会に入りますと、自分の心がいかに幼稚であったか、と悩みだします。
特にカトリックの洗礼を受けた高校生の頃、ドイツの神父様に「君は、どうして人の気持ちがわからないのか」としばしば怒られました。
新潟県と福島県の境目の村に疎開した折は、しばしば「お前は戦犯の息子だ」と虐められた記憶があります。今、思えば、村の方々は親切にしてくださっていたのに、末っ子で我儘に育った私には全てが気に入らなかったようです。こうして洗礼を受け、当時のドイツの神父様からの助言はすべてが苦痛でしたが、信徒となり人への愛についての深い教えを学ぶほどに自分が恥ずかしくなりだします。
当時教えられて大好きだったお祈り「祈り求めることはすべて、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、その通りになる」(マルコ11・24)が頼りでした。
しかし、社会に入り海外を飛び歩いている内に神様の愛を本気で信じた時の厳しさと喜びが、今の私の生き甲斐になっているのに気づきました。かつ、何かを期待して待ち望むのが大切だ、とも気づきます。
真善美という深い哲学や視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感、そして生身の人間が感じる喜怒哀楽を通して味わえる神様の愛情、この教えを教えて下さった今は亡きドイツの神父さまに感謝しています。