初めての教会でも、聖堂に入るといつもなつかしさを感じます。確かに神がおられる、という存在感が香りのように届くのです。
なつかしいという思いは、以前出会ったことがあり、その人を知っていることから生まれる感情です。私はどこで神に出会ったのでしょう。
一つは、聖書に表れるイエスの行動や言葉を想像し、味わうことによってです。例えば、イエスが湖でペトロの舟に乗り、神の国について群衆に語る場面があります。(ルカ5・3)そこでは、心地よい朝の風に吹かれ、イエスの髪がなびいているのが目に浮かびます。群衆は岸辺にいるので少し離れていますが、イエスはよく通る声の持ち主だったのでしょう。人々は朗々と語る彼の話を夢中になって聞いています。
別の箇所では、日差しを浴び、砂ぼこりにまみれた足を前へ前へと進ませている姿があります。ヤイロという人に頼まれて、病気の娘に会いに行く場面です。息を引き取った少女の手を取って、「起きなさい」と言うと少女は起き上がりました。イエスは食事を与えるように言ってそっと立ち去ります。(マルコ5・21~43)
福音書は、イエスが人々に注ぐ温かなまなざしで輝いています。その心の美しさに触れた人は彼を好きになるでしょう。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」という聖パウロの言葉があります。(2コリント8・9)それはイエスのことです。
神がどんなに私たちを愛しているかを伝え、私たちがそれを知って本当の命を得るためにイエスは人となられました。そして、命を投げ出してくださったのです。これを思うとイエスへの感謝と慕わしさで胸がいっぱいになります。