今からおよそ2000年前、イエス・キリストという方が遠い異国の貧しい馬小屋で産声をあげました。
このことは私達にとって、どのような意味があるのでしょうか?日本で生きていると、一見、関係のない出来事のように感じるかもしれません。
しかし、「私たちにとってキリスト教とは何か」と頭で考えるよりも、私は次のことを想像するのです。もし、聖夜に一人、目を閉じて暗闇の中から幼子の清らかな声が耳の奥に響くならば、そこにひとすじの光が射しーーそして、心の底から"信じる"とき、その人の心の中で密かに新たな道は始まります。信仰の旅路の第一歩を踏み出すならば、今迄の素朴な日々の風景が、今日一日が、一カ月が、一年が、意味を帯びた時間になってくるでしょう。それはきっと生活する為の次元のみでなく、「人生というものの次元」に気づき始め、〈信仰の目〉が開かれるからだと思います。
最近、あるシスターとこんな会話をしました。
「神様は目に見えないけれど、一体どこにいるのでしょう」
「私は聖書のなかでパウロが語っている〈内在の神〉を思います。日曜日のミサで〈キリストの体〉である御聖体をいただくでしょう?それは復活したキリストの霊を身に纏うことであると同時に、私の心のなかに主イエスがおられることを信じることなのです。そして、私は神父様からいただく御聖体に心を込めてアーメンと言い、口に含みます」
私達は日々を〈目に見える世界〉で生きていますが、そのような物質社会のなかで、もがくように幸せを探すのではなく、クリスマスの夜は、天からのメッセージである幼子の誕生にそっと耳を澄まして、穏やかな幸せに包まれて迎えたいと願っています。