最高のお恵みを頂いて

マクドナル神父

今日の心の糧イメージ

 92歳になった私の10日間のアイルランドへの訪問はそこに住む親戚たちを驚嘆させましたが、20年ぶり、3回目の訪問は、素晴らしい巡礼の旅となりました。

 聖パトリックの教会、「ケルズの書」、ケルトの十字架などアイルランドの歴史に触れ、クリスタル工場では天使の大群が光を放って現れたごとく、美しく輝くクリスタルのイエス誕生の場面を、そして、壮大なモハーの断崖に感激し、ノックシュラインでは魂の故郷、先祖たちに思いを馳せて・・・。

 1879年、小さなノックの村に住む十五人に、聖母マリアや、神の小羊となってイエスが出現し、以来、そこは聖母マリアの丘として巡礼地となりました。聖母出現の時、13歳だった私の祖父を思い、その地で親戚たちと共にごミサを捧げることは感動的なことでした。

 その後、約800年前に建てられたバレンツーバー教会を訪問。その教会はどんな迫害にも耐えたアイルランドを象徴するかのように、その間約200年、屋根が破壊されましたが、延々とごミサや洗礼式などが行われ、訪れた日も結婚式が行われていたのです。

 その夜、マクドナル家の親戚たち約20人との会食、それは感慨深く懐かしく、本当に楽しいひとときでした。

 ノックでの滞在を終え別れを惜しみながらダブリン行きの列車に乗った私たちに、「ハロー」という声が聞こえ、振り向くとなんと、もう一度会いたいと、いとこが息子と一緒に乗車してきたのです。到着したダブリンでランチを食べ、話して・・。

 彼等の暖かい思いやりで心満たされ、翌日私は永遠の幸せを胸いっぱいに、パーフェクトな巡礼の旅を終えて日本へ。本当に今年は忘れられない年となりました。

 来たる年も神様のお恵みが皆様の上に豊かに注がれますように。

それでも感謝

片柳 弘史 神父

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 イエス・キリストは弟子たちに、「私について来たいなら、自分の十字架を背負いなさい」と言った。(マタイ16・24)十字架というと、病気や怪我、挫折など何か苦しいことを連想してしまいがちだが、そうではない。私たちが背負うべき十字架とは、神から与えられた使命のことなのだ。

 例えば、ある人は神から、子どもたちの親となる使命を与えられている。子どもが病気になったり、反抗して言うことを聞かなかったり、ときに親としての使命は苦しみを生むこともあるだろう。しかし、同時に親としての使命は生きがいや喜びの源でもある。子どもが育っていくのを見る楽しみ、子どもと共に生きる喜びは、親となる使命を引き受けたからこそ生まれてくるものなのだ。苦しみを伴うからといって使命を担うのを拒めば、生きる意味や喜びさえも拒むことになりかねない。神父として生きる使命も同じだ。たくさんの仕事に追われたり、孤独を感じたりするとき、神父として生きる使命は苦しみを生む。だが同時に、神父になったからこそ味わえる人生の充実感や奉仕の喜びは、なにものにも代えがたいものだ。

 使命が苦しみを生むとき、私たちはつい「なぜ私がこんな目にあわなければならないのか」「もう投げ出してしまいたい」と思ってしまいがちだ。だが、そんなときには、使命を与えられたありがたさを思い出したい。この使命があるからこそ私は生きがいを感じられるのだし、この使命のお蔭で大きな喜びを味わってきたのだ。そのことに気づけば、神から与えられた使命の十字架を、感謝して担ぎ直すことができるだろう。神から与えられた使命の十字架は、ときに苦しみを生むこともあるが、何よりも私たちの生きる意味、生きる力そのものであることを忘れないようにしたい。


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