イエス・キリストは弟子たちに、「私について来たいなら、自分の十字架を背負いなさい」と言った。(マタイ16・24)十字架というと、病気や怪我、挫折など何か苦しいことを連想してしまいがちだが、そうではない。私たちが背負うべき十字架とは、神から与えられた使命のことなのだ。
例えば、ある人は神から、子どもたちの親となる使命を与えられている。子どもが病気になったり、反抗して言うことを聞かなかったり、ときに親としての使命は苦しみを生むこともあるだろう。しかし、同時に親としての使命は生きがいや喜びの源でもある。子どもが育っていくのを見る楽しみ、子どもと共に生きる喜びは、親となる使命を引き受けたからこそ生まれてくるものなのだ。苦しみを伴うからといって使命を担うのを拒めば、生きる意味や喜びさえも拒むことになりかねない。神父として生きる使命も同じだ。たくさんの仕事に追われたり、孤独を感じたりするとき、神父として生きる使命は苦しみを生む。だが同時に、神父になったからこそ味わえる人生の充実感や奉仕の喜びは、なにものにも代えがたいものだ。
使命が苦しみを生むとき、私たちはつい「なぜ私がこんな目にあわなければならないのか」「もう投げ出してしまいたい」と思ってしまいがちだ。だが、そんなときには、使命を与えられたありがたさを思い出したい。この使命があるからこそ私は生きがいを感じられるのだし、この使命のお蔭で大きな喜びを味わってきたのだ。そのことに気づけば、神から与えられた使命の十字架を、感謝して担ぎ直すことができるだろう。神から与えられた使命の十字架は、ときに苦しみを生むこともあるが、何よりも私たちの生きる意味、生きる力そのものであることを忘れないようにしたい。