先日私は神父の養成所である神学校に転勤になりました。
ある時、ひとりの神学生が、助祭という職務に任命される助祭叙階式が行われました。そして次の日に、その叙階式を司式してくださった司教さんのお母さんが亡くなりました。
助祭になった人が、どうしても葬儀に出席したいと私に相談に来ました。通夜は神学校で大切な儀式があり、その担当なので駄目だが、葬儀は出席できそうなので、と私に頼みました。「恩があるからね」と私は許可しましたが、翌日になって「実は葬儀の日も授業があるのでいけません」とがっかりして言いにきました。
私の方に、葬儀責任者から、助祭や神学生は神学校で祈ってくださるだけでじゅうぶんですとの伝言が入ってきましたので、「残念だが、明日の朝、神学校で祈ろう」と声をかけました。
ところが、助祭の他にも、通夜葬儀に出席したいと思う神学生達10人ほどが集まり、話し合いが始まったのです。私はその場にいなかったのですが、たぶん、どうしても行きたい、担当者を変わってくれ、授業を出ずに葬儀に行きたいとかの話が出たはずです。
その後すぐに私のところに、「お通夜には、儀式の担当でない2人を代表として、また葬儀には授業がない1人を代表として行かせてください」と伝えてくれました。
厳しい状況になったとき、個々にではなく、互いに思いを寄せ合い、最も適した結論を見つけていくその姿に、私はとても感動しました。彼らは話し合うことによって小さな平和を見つけたのでした。私も出席した葬儀で、責任者の1人から、「お騒がせしました」と謝られましたが、私は「いえいえ、おかげさまでいい話し合いが持てたようですよ」と神学生たちを誇りに思ったことでした。