共に過ごした年長者といいますと、母と父を懐かしく思い出します。さらには恩師、仕事の大先輩、私の人生を支えて下さった沢山の恩人たち、思い出しても胸が熱くなる、あの方々に手を合わせて感謝しています。今の私の幸福感は全てあの大先輩たちの優しさからです。
更に年齢不詳の方がもう一方おられます。不謹慎な、と怒られそうですが、私が心から愛し、尊敬し、信頼しきった方です。その方とは私が信じている神様のことです。年長者という言葉を思索している内に沢山の先輩から受けた色々の支援と愛情を思い出し、さらには、その愛情の源を考え出しましたら、どうしても私が信じている愛である神様のことが心の中に大水のように流れ出すのです。
第2次世界大戦が終わった時、私は小学校3年生でした。以来、今日まで、無数の大先輩が私を支援して下さって、今日まで生きてこられました。その愛の源泉は、どう思索しても私が信じている神様に繋がっていくのです。頂いた無数の年長者の愛情を、今は後輩に恩返しの意味で教育事業として展開しています。
私が信じている神様は、愛そのもの、宇宙万物の創造主、全知全能の方、三位一体という不思議な方、十字架の贖罪と復活の神、そのような不思議な神様と共に生きています。
このような神様と何故、出会えたかと言いますと、戦後の混乱した疎開先での日々が私の心まで乱れさせ、このままだと自分は駄目になるなあ、と少年なりに苦しんでいました。そんな折、偶然のようにドイツの神父さんと出会う運命になります。その神父に反抗しつつ神様を意識する人生を迎えます。
今までお世話になった年長者の背後に私の大好きな神様が動いておられたのだなあ、としみじみ思います。