私事ですが、神父になってから、年長者の方々と接することが数多くありました。自分自身が若かったということもありますが、教会の高齢化が進んでいることも、理由の一つかもしれません。
今まで、年長者の方々から、多くのことを学ばせていただきました。意思決定の方法や、意見集約の方法、さりげない愛のわざや、ささやかな思いやりなど数々のことを教わりました。
ふと、イエスさまと年長者の方々とは、どのような関わりを持っておられたのだろう、と思いました。
聖書の中に次のようなお話があります。罪を犯した女性に対して、モーセの律法に従って石を投げるように、律法学者やファリサイ派の人々がイエスに迫る話です。(ヨハネ8・1~11)
罪を犯したとしても、人間一人一人を本当に大切にしておられたイエスはこう告げます。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(同8・7)
「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が」残ります。(8・9)
すると、イエスは罪を犯した女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と告げます。(8・11)
このお話によると、年長者の方々は、自分の罪深さを他の誰よりも自覚し、自らの無言の行動の内に、他の人々を導いていきます。言い換えると、イエスの思いを自らの経験から敏感に感じ取り、ゆるすように、と人々を促したのだと思います。
年長者と共に歩むとは、彼らの経験からくる知識や感受性、やさしさを受け入れながら歩んでいくことなのかもしれません。高齢化が進む日本の社会で、年長者の一人一人が本当に大切にされるようにと願っています。