正直に言うと、わたしには「母のぬくもり」が分からない、というべきでしょう。なぜなら、わたしが3歳の時に、母は病気で亡くなったからです。かろうじて、幼児期の記憶を辿ると、台所で子どものわたしの口を開けて、生たまごを飲ましてくれたこと。父親に連れられて、仙台の病院に見舞いに行ったこと。居間に横たわっている母親の遺骸ぐらいです。ぬくもりとは全く縁遠いことです。
父は新しい母を迎えましたが、その母はまったく冷たい女性で、非常に嫌な思いをしました。でも、ひねくれなかったのは、父が生きていたことと、兄弟が大勢いたからだと思います。
母のぬくもりを経験したことはありません。
わたしが10歳のとき、父は亡くなりました。孤独を覚えましたが、その時、カトリック信者になろうとしていた姉から信仰の話を聞き、1冊の本を渡されました。
その中に聖母マリア様のお話しが載っていました。むさぼるように読んで感動したわたしは、そうだ、私たちには、聖母マリア様がいるんだ。マリア様はただ単に、ナザレのイエスの生母であるだけでなく、すべての人の母なのだと知りました。なぜなら、わたしたちは皆、神の子どもとして、マリアを母として頂いているからです。
わたしたちは、神さまに畏敬の念をもって近づきますが、聖母マリア様には優しく寛大で美しい母親として接し、取り成しの祈りを願っています。仏教の教えを借りれば、観音様のような仏様を連想します。ですから、潜伏キリシタンの人々は、マリア観音を刻んで祈っていたのです。
わたしには聖母マリアが居られるんだと、思うたびに、母のぬくもりを感じてきました。