どういうわけか、親との関りがあるその瞬間には感じられないものですね。何を、と言いますと、親心というものです。
わたしは小学校を3回ほど変わりました。その度に、今では社会問題にまでなっているいじめにあったものです。その原因が何だったのか、はっきりと記憶にないのですが、多分言葉が通じなかったことがあったのではないかと想像しています。
小学校2年生の時、鹿児島から長崎へ転居しました。鹿児島弁が長崎の人にそう簡単に通じるわけがありません。その逆も真です。
ある日の休み時間の屋上で、どうしてそうなったのか、前後のことは覚えていないのですが、わたしがある子の耳にいたずらをしたのでした。いじめられていた仕返しみたいなことだったとは覚えています。
その日の弁当の時間に、その子の父親が教室に入ってきて、椅子を振り上げ、わたしに向かってきたのです。女性の担任の先生は泣き出すし、わたしも怖くなって逃げ回りました。
それからどうなったのか記憶にありませんが、なぜかわたしは警察署にいました。お巡りさんが「お母さんを呼んでいらっしゃい」というので、呼びに行きました。「家にいてくれ」との願いを込めて走りました。
母は家にいました。
この時の安堵感は何とも言えません。今でもよみがえります。いつもは泣かないわたしが、思いっきり泣きだしたことも覚えています。「母がそこにいる」だけで安堵感と温かみを抱かせてくれるんですね。
大きくなってから、一度だけ、母とこの話をしたことがあります。その時は思い出とともに笑い話になりました。
親の温もりは、後で「明るい思い出話」として語り継ぐものとなれば、いいものだなと思っています。