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父のぬくもり

小林 陽子

今日の心の糧イメージ

 66才のまだ働き盛りで肺ガンに倒れた父は、明治最後の年の生まれ、生きていたら今年で105才です。

 その父のぬくもりの思い出を辿るのはそう簡単ではありません。なにしろ父は常に「不在のひと」でした。

 ものごころついて初めて父と対面したのは5才のとき。

 軍帽に、ゲートルを穿いて、戦地インドネシアのスマトラ半島から帰還した父が玄関にニコニコ顔で立っていました。出征したのはわたしが赤ん坊の時でしたから、わたしにとっては初対面。恥ずかしがって母の背中に隠れていましたっけ。

 以来父にはずっと人見知りでした。

 その後も仕事ひとすじの父は、またも家には不在がちで、弁護士として全国をとびまわっておりました。

 それで、父と一緒に遊んだ記憶はほとんどないのですが、ひとつだけちょっとおかしなシーンを憶えています。

 あれは、お酒が入って父は少し酔いがまわっていたのでしょう。 5つか6つくらいのわたしを肩ぐるまして、ひょこひょこ踊るような足取りでなにかの替え歌を歌ってくれました。そこだけ、しっかり覚えています。でも、父の両肩に股がって天井が迫り、ちょっとこわかったー。

 父が亡くなってまもなく、母から聞いた話ですが。全く見覚えのない、一見異様な風体の男性が家を訪れ「先生には救われました。恩人です。焼香させてください」と言われたそうです。

 それは父の検事時代、大晦日の留置場に居た彼に父はヤカンのお茶をさし入れたそうですが、中味はなんとお酒だったと。せめて年越しを人並みにさせたかったのでしょう。でも、みつかったらクビもんです。

 じつに人情味のある男だったと、葬儀のあといろいろエピソードを聞かせていただきました。

 わたし達家族の知らないことばかりです。