苦しみの意味

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 なぜ、神は人間に苦しみを与えるのだろうか。人間の苦しみには、一体どんな意味があるのか。その一つの答えは、苦しみを味わった人には、同じような苦しみを味わっている人の気持ちを想像する力が与えられるということだ。

 病気の苦しみを味わうことによって、私たちは病気の人たちの気持ちを想像できるようになる。肉親との死別の苦しみを味わうことによって、私たちは同じように肉親を失った人の気持ちを想像できるようになる。苦しみを味わうことによって、わたしたちは、同じような苦しみを味わっている人の苦しみを想像し、その苦しみを自分自身の苦しみのように感じることができるようになるのだ。苦しみの体験はわたしたちに、人の苦しみに共感する力を与えてくれると言っていいだろう。

 苦しみに共感してくれる人の存在は、苦しみの中にある人たちに大きな力を与える。私たちの苦しみをまるで自分のことのように思い、隣で一緒に泣いてくれる人がいれば、私たちは大概の苦しみを乗り越えて行くことができるだろう。苦しみの中にある人にとって、共感してくれる人の存在はまさに救いなのだ。

 イエスが十字架上で苦しみを味わったことの意味が、ここにある。十字架上のイエスが味わっている苦しみは、人類の苦しみを共に担うための苦しみなのだ。イエスは、苦しみを取り去ることによってではなく、苦しみを共に担うことによって私たちを救って下さる方なのだ。

 神は、苦しみの体験を通して私たちに、誰かの苦しみに共感する力、誰かの苦しみを共に担う力を与えて下さる。それは、一つの召し出しと言ってもいいだろう。苦しみの体験を通して私たちは、苦しみを味わった者にしか果たすことのできない救いの使命を神から受け取るのだ。

ホッとするとき

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 人は幸せを求めて旅をしています。山あり谷ありの旅ですが、疲れては泉のほとりでホッとしたとき、何故か再び元気を取り戻し、また長い旅を続けます。ホッとすると、人は何故、元気になるのでしょう?

 私自身の場合、日常生活で、どんな時にホッとするかを考えてみますと、周囲の人間関係での不信感が解消した場合とか、罪悪感や、劣等感、混乱感、絶望感などが見事に消えて、明るい希望や望む知恵や友情、愛をしみじみと体感した時等、心底、ホッとします。

 さて一日が終わり、暖かく心地よい自分の布団に入り込んだ時の安堵感は一段と深いものがあります。いつも考えるのですが、この就眠直前の安堵感は一体、どこから生まれてくるのだろうと。奇妙な解釈かもしれませんが、長い人生の旅が終わり、いよいよあの世に旅立つ時、この就眠時の安堵感があるような気がします。気が付いたら天国だ、となれば良いのですが、もし恐ろしい場所だったら嫌だなあ、とも思います。しかし、私には、あの就眠時の安堵感の意味は、どうも天国への旅立ちに勇気を与えて下さる神様からのシグナルではないか、と勝手に解釈しているのです。

 洗礼を受けた17才からの習慣からか、寝る時、「心も体もみ手にゆだねます。父と子と聖霊のみ名によって」だけは何故か真面目に祈ります。余程、愛である神様にしか頼れない自分の成育史があるのでしょう。まだまだ生きている間にやり遂げたい夢が沢山ありますので、大きなエネルギーが欲しい私です。

 人の身体は神の神殿と言われています。人は不安感や怒り、混乱感があると、健全な心身を保持するのは不可能ですので、何とか「ホッとするとき」で生き抜ける人生でありますよう神様に祈る毎日です。


前の2件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11