ホッとするとき

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 ある駅で誘導してくれた若い駅員さんが、落ち込んでいました。何度も車掌の試験を受けているのに落ちてしまい、しかも、「今回は血圧で引っかかってしまって」というのです。

 「もう年齢もぎりぎりだし、駄目かもしれません」

 私は慰めの言葉もなく困惑しながら、とにかく「試験を受けられるうちは受けてみられては」と言ってみました。そして、「これは私の経験ですが、たとえ100個の門が閉ざされても、101個目は開くことがあります。だからチャンスがあるなら諦めないで。私もご成功を祈っていますから」と付け加えました。

 以後、彼には会いませんでした。私はこの駅を通るといつも、彼のことを思い出していました。

 1年余りが過ぎたころ、別の駅で誘導してくださった駅員さんが、あの彼と同じ駅も担当していると話してくれました。そこでふと、「車掌試験を受けている駅員さんがいらして」と切り出してみました。すると、驚く返事が返ってきました。

 「ああ、その方なら、はい、いまは車掌になってます。ええ、彼のこと、知ってますよ。」

 「じゃあ、いまも話されることありますか」

 「はい」

 「私から、おめでとうございますと伝えてください」

 「承知しました」

 急に仕事口調になった彼は、きっと私の祝福を伝えてくれたことでしょう。そして車掌になった元駅員さんは、試験に合格してほっとしただろう、と思ったのです。

 トンネルの出口が見えないとき、私は「ほっとする」瞬間を夢見て進みます。神様はきっと、その瞬間を用意してくださっていると信じて。あの彼にも、その瞬間はちゃんと用意されていました。私は、彼の「ほっとするとき」のために祈れたことを、ホッコリ喜んだのでした。

ホッとするとき

中井 俊已

今日の心の糧イメージ

 忙しい毎日の中でも、ホッとできるときが誰にでもあることでしょう。例えば、お風呂につかって疲れをいやすとき、家族と一緒においしいご飯を食べるとき、温かいふとんのなかで疲れた体を横たえるとき、など。

 ところで、私にとってもっとホッとできるのは、神様から自分の罪がゆるされたときです。

 神様は、罪人をゆるし、救うためにこの世に来られた非常に憐れみ深い方です。私たちが自分の過ちを認め、悔い改めればとても喜んでくださるのです。

 聖書でイエスは、「放蕩息子のたとえ」を使って、私たちが悔い改めたときの神様の慈悲深さと喜びを語っています。

 「まだ、遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』しかし、父親はしもべたちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ』。そして祝宴を始めた」(ルカ15・22~24)

 罪のゆるしは、洗礼を受けたカトリック信者なら、キリストが制定した「ゆるしの秘跡」によって与えられます。そうでない方は、洗礼を受けるとき、それまでのすべての罪がゆるされます。

 私たちは、どれだけ失敗し、傷つき、倒れても、再び立ち上がり、何度でもやり直すことができます。ときに放蕩息子のような私たちは、罪がゆるされることで、平安と喜び、そして生きる力と恵みを取りもどすことができるのです。


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