ホッとするとき

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 重い荷物を置いた時、仕事を終えた時、問題が解決した時等に、私たちは、ホッとする感覚を味わいます。それは、「ねばならない」という圧迫感や緊張感から解放されるからです。私は、自分のホッとする感覚を思い出す時、様々な境遇下で、絶えず緊張や恐怖の只中で生きねばならない人々を思い起こします。

 主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、すべての人々を招かれます。(マタイ11・28)

 今、生活に困窮する人、日常を脅かされている人々は、どのようにイエスに休ませていただけるのでしょうか。先進国で、物的にあり余る生活を送り、「豊かだ、恵まれている」と勘違いしている人々も、イエスが意味する「休み」を得ているかどうかはわかりません。現代の多くの人々は、種々の重荷に心を占領され、疲れ切っているようにも見えます。

 「わたしに学びなさい」と言われる主イエスは、人としての痛みや苦しみを自ら経験されました。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(同・29)と続く言葉は、イエスの自らの生き方と体験から出て来た言葉です。イエスは、人のあらゆる苦しみを知り、日々の私たちの十字架に心から共感し、共に担い、痛みを分かち合って、本物の安らぎを与えてくださる方です。

 私は、敢えて貧しさや苦しみを欲してはいません。しかし、これまでの経験から、人の人生は、どんなに苦しい時も、その痛みを、身をもって知っておられる主イエスこそ、「ホッとする」感覚だけではなく、私の「安らぎ」そのものとなってくださる方だということを学んできたように思います。

ホッとするとき

熊本 洋

今日の心の糧イメージ

 人生には、やるべき事が山積しています。毎日、毎日、そのやるべき事を成し遂げるため、それぞれ、粉骨砕身、多大の努力を積み重ねていかねばなりません。賞賛すべき事ですが、極めて強固な意志と忍耐力が要求されます。強固な意志と忍耐力、この二つの力で、着実、堅実に、ひとつひとつ難関を克服してこそ、究極の目標が達成されます。たゆまぬ努力のあと、遂に目標を達成できた時には、ホッと一息、その喜びは、筆舌に尽くしがたいものがあるに違いありません。その達成に苦労が多ければ多いほど、その喜びは大きく、心の底から達成感、満足感を実感することができます。この実感は実に尊く、それを満喫してこそ、人生に生きがいがあると言えます。この人生の生きがいである、達成感、満足感を醸し出せる生活を、日々送りたいものであります。

 ところで、日常の生活で、「ホッとするとき」とは、どんなときでしょうか。多くのサラリーマンにとって、朝起きて、仕事に出掛ける前の緊張感は、だれしも同じです。ことさら、朝寝坊にとっては、まさに"緊急事態"を迎えることになってしまいます。朝食もそこそこに、駅に駆けつけ、いつもの通勤電車やバスに間に合ったところで、その日、最初の「ホッと一安心」を体験するということになるかもしれません。一方、それから、およそ八時間後、一日の仕事を無事終え、帰宅の途につくときも、まさしく「ホッとするとき」の典型であります。そして、我が家にたどり着き、一家団欒の夕食をするときも、これまた「ホッとした」気分にひたれる幸せのひととき、誠に貴重であります。いずれの家庭においても、このひとときをなにより大切にしたいものであります。


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