ホッとするとき

中井 俊已

今日の心の糧イメージ

 忙しい毎日の中でも、ホッとできるときが誰にでもあることでしょう。例えば、お風呂につかって疲れをいやすとき、家族と一緒においしいご飯を食べるとき、温かいふとんのなかで疲れた体を横たえるとき、など。

 ところで、私にとってもっとホッとできるのは、神様から自分の罪がゆるされたときです。

 神様は、罪人をゆるし、救うためにこの世に来られた非常に憐れみ深い方です。私たちが自分の過ちを認め、悔い改めればとても喜んでくださるのです。

 聖書でイエスは、「放蕩息子のたとえ」を使って、私たちが悔い改めたときの神様の慈悲深さと喜びを語っています。

 「まだ、遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、哀れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』しかし、父親はしもべたちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ』。そして祝宴を始めた」(ルカ15・22~24)

 罪のゆるしは、洗礼を受けたカトリック信者なら、キリストが制定した「ゆるしの秘跡」によって与えられます。そうでない方は、洗礼を受けるとき、それまでのすべての罪がゆるされます。

 私たちは、どれだけ失敗し、傷つき、倒れても、再び立ち上がり、何度でもやり直すことができます。ときに放蕩息子のような私たちは、罪がゆるされることで、平安と喜び、そして生きる力と恵みを取りもどすことができるのです。

ホッとするとき

シスター山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 重い荷物を置いた時、仕事を終えた時、問題が解決した時等に、私たちは、ホッとする感覚を味わいます。それは、「ねばならない」という圧迫感や緊張感から解放されるからです。私は、自分のホッとする感覚を思い出す時、様々な境遇下で、絶えず緊張や恐怖の只中で生きねばならない人々を思い起こします。

 主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、すべての人々を招かれます。(マタイ11・28)

 今、生活に困窮する人、日常を脅かされている人々は、どのようにイエスに休ませていただけるのでしょうか。先進国で、物的にあり余る生活を送り、「豊かだ、恵まれている」と勘違いしている人々も、イエスが意味する「休み」を得ているかどうかはわかりません。現代の多くの人々は、種々の重荷に心を占領され、疲れ切っているようにも見えます。

 「わたしに学びなさい」と言われる主イエスは、人としての痛みや苦しみを自ら経験されました。「そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(同・29)と続く言葉は、イエスの自らの生き方と体験から出て来た言葉です。イエスは、人のあらゆる苦しみを知り、日々の私たちの十字架に心から共感し、共に担い、痛みを分かち合って、本物の安らぎを与えてくださる方です。

 私は、敢えて貧しさや苦しみを欲してはいません。しかし、これまでの経験から、人の人生は、どんなに苦しい時も、その痛みを、身をもって知っておられる主イエスこそ、「ホッとする」感覚だけではなく、私の「安らぎ」そのものとなってくださる方だということを学んできたように思います。


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