ホッとするとき

遠山 満 神父

今日の心の糧イメージ

 以前訪問していた当時80代の男性信者さんが、私にしみじみと次のような事を話して下さいました。

 「夫婦は、何か特別な事が無くても、一緒に御茶を飲みながら過ごす時間を大切にしないといけない」と。この方がこのように言われたのには、訳がありました。この方は、60歳で定年になり、御自宅で夫婦2人の生活が始まりました。お互いにテレビ番組の好みが異なったので、食事の時だけは食堂に集まり、他の時間は各々自分の部屋で好みの番組を御覧になる生活が続きました。けれども、ある時、奥様の身体に異変が見つかり、そのまま入院。御主人は、それから毎日半年以上に亘って、お見舞いを続けられましたが、看病の甲斐なく奥様は帰天されました。この時の体験が、この方をして前述したような事を言わしめたのです。

 私も、大切な人とのティータイムを大切にしたいと思っていますが、私にとって誰よりも大切なのは、イエス様です。果たして、イエス様とティータイムを過ごす事が出来るのでしょうか。

 以前、ある練成会の指導者が、イエス様とのティータイムについて話して下さった事があります。その指導者は、次のように話して下さいました。

 「テーブルに向かい合わせて、ティーカップを2つ置き、お茶を注ぎます。そして、今ある時間を3つに区切ります。例えば、30分余裕があれば、10分ずつ。初めの10分、自分がイエス様に話したい事を話します。次の10分、沈黙の内にイエス様の話を聴きます。最後の10分、アトランダムに聖書を開いて、開いた箇所を読み、そこで語りかけて下さっている事に心を留めます」。

 忙しい時、イエス様とのティータイムによって、疲弊した心が癒されるのを感じ、感謝しています。

ホッとするとき

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

 大阪で暮らして50年余りも経つのに、何かの拍子にふるさとの言葉がでる。

 先日も、たまっていた用事が片づいた時、「あんどこんどした」と思わず口からついて出た。

 五島弁で「ホッとした」というような意味である。が、この「あんどこんどした」を標準語に置きかえることはむずかしい。

 ホッとしたという以上の深い意味がこめられていると私は思うからである。

 1969年6月、父が亡くなった時、私は父の臨終に立ち会えなかった。

 20日も父の病室で寝泊まりしていたが、主治医に「お父さんはまだ大丈夫、1回、大阪へ帰ってもいい」といわれて、帰った翌日の朝、会社に父の亡くなった知らせが届いた。

 帰郷すると父はもうものいわぬ人になって、ロザリオを手に横たわっていた。

 泣きじゃくる私たちきょうだい5人に母はいった。

 「父ちゃんはよか最期ばしたとよ、松下神父様に『中尾さんはよく捧げましたね』とほめられたとよ。父ちゃんはさ、亡くなる前に大きかため息ばついたとよ。ああ、この世に思いのこすことはなか。終油の秘跡もさずかったし、あんどこんどしたっちいうふうにして神さまのもとへ行ったとよ」と教えてくれた。

 それをきいた私たちきょうだいは、悲しいけれど父は天国へ行ったのだと思うことができた。

 私がホッとする時はたいてい一日のすべての用事がすんで、風呂にも入り、寝る前にお祈りをする時である。

 私も72歳になり、父の亡くなった年を超えた今、臨終の時、あんどこんどした姿で神さまの元へ帰りたいなと願っている。


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