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ホッとするとき

今井 美沙子

今日の心の糧イメージ

 大阪で暮らして50年余りも経つのに、何かの拍子にふるさとの言葉がでる。

 先日も、たまっていた用事が片づいた時、「あんどこんどした」と思わず口からついて出た。

 五島弁で「ホッとした」というような意味である。が、この「あんどこんどした」を標準語に置きかえることはむずかしい。

 ホッとしたという以上の深い意味がこめられていると私は思うからである。

 1969年6月、父が亡くなった時、私は父の臨終に立ち会えなかった。

 20日も父の病室で寝泊まりしていたが、主治医に「お父さんはまだ大丈夫、1回、大阪へ帰ってもいい」といわれて、帰った翌日の朝、会社に父の亡くなった知らせが届いた。

 帰郷すると父はもうものいわぬ人になって、ロザリオを手に横たわっていた。

 泣きじゃくる私たちきょうだい5人に母はいった。

 「父ちゃんはよか最期ばしたとよ、松下神父様に『中尾さんはよく捧げましたね』とほめられたとよ。父ちゃんはさ、亡くなる前に大きかため息ばついたとよ。ああ、この世に思いのこすことはなか。終油の秘跡もさずかったし、あんどこんどしたっちいうふうにして神さまのもとへ行ったとよ」と教えてくれた。

 それをきいた私たちきょうだいは、悲しいけれど父は天国へ行ったのだと思うことができた。

 私がホッとする時はたいてい一日のすべての用事がすんで、風呂にも入り、寝る前にお祈りをする時である。

 私も72歳になり、父の亡くなった年を超えた今、臨終の時、あんどこんどした姿で神さまの元へ帰りたいなと願っている。