ある駅で誘導してくれた若い駅員さんが、落ち込んでいました。何度も車掌の試験を受けているのに落ちてしまい、しかも、「今回は血圧で引っかかってしまって」というのです。
「もう年齢もぎりぎりだし、駄目かもしれません」
私は慰めの言葉もなく困惑しながら、とにかく「試験を受けられるうちは受けてみられては」と言ってみました。そして、「これは私の経験ですが、たとえ100個の門が閉ざされても、101個目は開くことがあります。だからチャンスがあるなら諦めないで。私もご成功を祈っていますから」と付け加えました。
以後、彼には会いませんでした。私はこの駅を通るといつも、彼のことを思い出していました。
1年余りが過ぎたころ、別の駅で誘導してくださった駅員さんが、あの彼と同じ駅も担当していると話してくれました。そこでふと、「車掌試験を受けている駅員さんがいらして」と切り出してみました。すると、驚く返事が返ってきました。
「ああ、その方なら、はい、いまは車掌になってます。ええ、彼のこと、知ってますよ。」
「じゃあ、いまも話されることありますか」
「はい」
「私から、おめでとうございますと伝えてください」
「承知しました」
急に仕事口調になった彼は、きっと私の祝福を伝えてくれたことでしょう。そして車掌になった元駅員さんは、試験に合格してほっとしただろう、と思ったのです。
トンネルの出口が見えないとき、私は「ほっとする」瞬間を夢見て進みます。神様はきっと、その瞬間を用意してくださっていると信じて。あの彼にも、その瞬間はちゃんと用意されていました。私は、彼の「ほっとするとき」のために祈れたことを、ホッコリ喜んだのでした。