そして、この復活の目的は何だったのか、と言うことは、私達の人生の目的とは何だったのかというところまで考えさせ、その答えを味わわせてくれると言えます。
私達は、神に愛されて創られたのではなかったでしょうか。私達を見て、神はよしと思われなかったでしょうか。私達が主に対して罪を犯してしまっても、神は御一人子イエスの命と引きかえにしてまで、私達を救って下さらなかったでしょうか。
これらのことは、私達がいずれ復活した後、全ての人が神に心からの愛と感謝の賛美を捧げるという、ダイナミックな喜びの交わりが、もはや滅びることなく、涸れることもなく、噴水のように噴き上がる、これが私達の存在の目的なのだという事を示しているのです。
ですが、主が来られる時はいつか、「天使も、子も知らない。父だけがご存じである」とイエスは言われます。(マルコ13・32)だから、時のしるしを見分けるように、目を覚ましているよう注意されるのです。「見よ、私は盗人のように来る」との、主の言葉は強烈です。(参:黙示録16・15)