故郷はいつも私の心の中にあり、私の思い出や人生の歩みと共にあります。子どもの頃に遊んだお寺や、卒業した小学校、いきつけだったラーメン屋さんなどなどです。故郷を思い起こすと、一気に懐かしい思いで一杯になります。
同時に、苦い思い出もよみがえってきます。
お寺の廊下を走り回ってしかられたことや、小学校の登校時に遅刻しそうになって、毎日走った通学路のこと。また、遊び友だちとケンカしたことなどです。長い時間が過ぎた今となると、少々苦い思い出も、ほほえましい思い出に変わって来ています。
ところで、聖パウロは言います。「すべてのものは、神から出て神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ:11・36)
この言葉によれば、故郷で生まれ過ごした私をお造りになられたのは、神ご自身です。そして、故郷での私の思い出や人生の歩みと共に神さまがおられ、そのすべては神さまに向かっているのです。
究極的には、私たちの本当の故郷は、神のみもとにあり、私たちの人生もすべて神の御手の内にあり、そして、私たちは、神のみもとへと帰って行くのでしょう。そこに神の栄光が輝き出ます。
私はいま北海道とはほど遠い環境にいる。都会は面白いし便利だが、バスに乗っても、店に入っても騒音が多いことに悩まされる。なぜこんなに騒がしくしていなくてはならないのかと思う。「静けさ」は心を休ませ落ち着かせる。それだけでなく、神の声を聞くために必要なものだ。
聖書には、聖母マリアが絶えず内省していたとわかる記述がある。家族でエルサレムに旅をした帰り、12歳のイエスを見失い、3日後に神殿で見つけた。イエスは「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、ご存知なかったのですか」と言った。聖母は意味が分からず、「思い巡らした」とある。(ルカ2・49~50)人の理解を超えた神に聞いていたのだろう。思い巡らすには物理的に音がないことと内面の静けさがいる。静けさは神の声を聞くための条件だと思う。