わたしの故郷

森田 直樹 神父

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京都市の南部、伏見というところで、私は生まれました。「京都生まれです」と言うと、多くの人たちが「うらやましいですね」とおっしゃいます。しかし、実際に住んでいると「いつでも行ける」と思い、いわゆる観光地のことをほとんど知りません。

それでも、故郷である京都への思いは強く、京都から離れれば離れるほど、その思いは強くなりました。誇らしく思ったり、懐かしく思ったりと、特にアメリカに住んでいた時には、よく故郷を思い出していました。

故郷はいつも私の心の中にあり、私の思い出や人生の歩みと共にあります。子どもの頃に遊んだお寺や、卒業した小学校、いきつけだったラーメン屋さんなどなどです。故郷を思い起こすと、一気に懐かしい思いで一杯になります。

同時に、苦い思い出もよみがえってきます。

お寺の廊下を走り回ってしかられたことや、小学校の登校時に遅刻しそうになって、毎日走った通学路のこと。また、遊び友だちとケンカしたことなどです。長い時間が過ぎた今となると、少々苦い思い出も、ほほえましい思い出に変わって来ています。

ところで、聖パウロは言います。「すべてのものは、神から出て神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。」(ローマ:11・36)

この言葉によれば、故郷で生まれ過ごした私をお造りになられたのは、神ご自身です。そして、故郷での私の思い出や人生の歩みと共に神さまがおられ、そのすべては神さまに向かっているのです。

究極的には、私たちの本当の故郷は、神のみもとにあり、私たちの人生もすべて神の御手の内にあり、そして、私たちは、神のみもとへと帰って行くのでしょう。そこに神の栄光が輝き出ます。

わたしの故郷

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

私は北海道で生まれ育った。田舎の大きな特徴は「静けさ」にあると思う。春ならば、そよ風が木々を揺らす音、鳥の声、冬ならば、きゅっきゅっと雪を踏みしめる靴の音がするくらいで、あたり一面は静寂に包まれている。外に出ると花の香りがした。そういう優しい雰囲気の中にいたのでゆっくり考えごとをしたり、1日中本を読んだりした。

関東で北海道のニュースを聞くと、雪や嵐などを非常に悲観的に伝えているが、そこに住む人々にとって雪は半年間つきあう友達だし、吹雪や大雨はいつでもやってくる当たり前のことだから身を守る準備はするが「自然」の変化に誰も文句を言わない。寒ければストーブの火を強め、温かいものを食べたらよい。時はゆったりと過ぎ、「しばれるね(凍えそうね)」と言って笑っている。

私はいま北海道とはほど遠い環境にいる。都会は面白いし便利だが、バスに乗っても、店に入っても騒音が多いことに悩まされる。なぜこんなに騒がしくしていなくてはならないのかと思う。「静けさ」は心を休ませ落ち着かせる。それだけでなく、神の声を聞くために必要なものだ。

聖書には、聖母マリアが絶えず内省していたとわかる記述がある。家族でエルサレムに旅をした帰り、12歳のイエスを見失い、3日後に神殿で見つけた。イエスは「どうしてわたしを探したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、ご存知なかったのですか」と言った。聖母は意味が分からず、「思い巡らした」とある。(ルカ2・49~50)人の理解を超えた神に聞いていたのだろう。思い巡らすには物理的に音がないことと内面の静けさがいる。静けさは神の声を聞くための条件だと思う。


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