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わたしの故郷

服部 剛

今日の心の糧イメージ

故郷というものは、人によってそれぞれ違う場所でありながら、心の中では共通する懐かしいイメージがあるのではないでしょうか。そして、聖書の中でイエスが語る「天の国」とは何かと思い巡らせるとき、それは人間にとって「魂の故郷」ではないかと想像します。

この世において、自分の名前を与えられ、1度きりの人生を生きるのはかけがえのないことです。しかし、それと同時に、目に見えるこの世のみがすべてならば虚しい、という問いかけが、10代の頃から私の心の中にありました。

今から400年以上前に遡る江戸時代には、日本の切支丹信徒は75万人いたそうです。その時代に信徒が増えたのは政治的な背景があるかもしれません。ですが、やがて禁教令による迫害が始まった後も、密かに信仰が語り継がれていったその所以は、貧しく苦しい毎日を生きる人々が、外国人の宣教師が説く「天の国」に魂の故郷のような思いを抱き、「参ろやな、参ろやな、パライソ(天の国の寺へ参ろやな」と祈り、一筋の希望の光を見たからだと思うのです。

隠れ切支丹も現代を生きる私たちも同じ人間です。当時の人々とは異なった悩みを抱えている私たちが、もしサン・テグジュペリが『星の王子さま』で語るように「本当に大切なものは目には見えない」と信じることができるならば幸い、と感じます。

私自身も悩みや不安を抱えることがありますが、10年前に洗礼を受けてから、いつの間にか〈この世は目に見えるものだけではなく、「天の国」はある〉という感覚が自分の中に宿っています。そして、魂の故郷を思い、目に見えぬ神の霊の働きの中で生きることで、弱さのある私さえも起き上がり、ふたたび歩くことができています。