わたしの故郷

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

ふる里はどこにあるかと探しても見つからない。しかし、ずっと記憶をたどっていくと、わたしにとってのふる里は、心の中にあると思うようになった。

ろだったと思う。わたしの年齢は2歳半ぐらいで、ようやく言葉が話せるようになった時の出来事が、もしかすると心のふる里と言えるかもしれない。

わたしは廊下のいちばん後ろの壁の前に立っていた。祖母は寒いのに、廊下で雑巾がけをしていた。冷たい水の入ったバケツで雑巾を洗い絞って、また廊下を拭いていた。わたしは祖母を見ながら、自分の着ていた毛糸の洋服のボタンを小さな手で2、3個はずして「ばあちゃん ここに お手こ 入れろ」と言ったのだ。すると驚いたことに祖母は、その場で泣き崩れて涙を流していた。わたしは祖母が泣いているので、心配になって、そばに行った。祖母は涙をぬぐいながら、嬉しそうに私を見つめた。

祖母はこの出来事を何度も母などに話していた。この出来事が祖母にとって、救いになっていたようなのだ。12歳で母親を亡くし、親類を転々として育った祖母の生い立ちを知るにつれて、わたしは小さくても祖母の心のふる里になっていたのかもしれない。

今、私も祖母の年齢に近くなってくると、幼いときのような無垢な行動はできなくなっている。日々、寂寞とした思いに駆られるというのが正直なところだ。それでも、あの幼い時のように、小さなことを大切に生きることができるなら、いつか天のふる里に迎えてもらえるかもしれないと、希望を抱くようになった。

わたしの故郷

湯川 千恵子

今日の心の糧イメージ

私の故郷は高知県の西南端・足摺岬に近い小さな町です。三方を山に囲まれ、松田川が町を大きく迂回して西の河口に流れています。途中に「河戸の堰」と呼ばれる堰がありました。土佐藩の奉行・野中兼山が土手を築き、岩山を削り、失敗を重ねた末、対岸から縄を張り、その縄の流れに添った弓なりに堰を築いてやっと完成したそうです。長さ150メートル、幅25メートルの大きな堰の石畳を川水が絶えず流れ、水門からは町中に水路が引かれ、田畑も潤されて堰の恩恵は絶大でした。また、ここに生まれ育った子どもたちには水遊びの天国で、私も夏の一日をこの「河戸の堰」で遊び暮らしました。

ダムのような堰の上流で泳ぎまわり、体が冷えると下流の中州や窪たまりで小魚を取り、石の下のエビを探り、堰の中央にある「筏流し」と呼ばれる小舟の通路の小さな滝を滑り落ちるスリルを味わい、愉しみました..。 

小学2年の夏のことは胸が痛みます。大雨が降った翌日、「今日は川に行ったら行かんぞ」と祖父に言われたのに友だちと行って堰から流され、危うく死ぬところでした。幸い堰の下の通路で助けられましたが、叱られるのが怖くて誰にも言えません。

ところが夕食の時、祖父が「チエコは痩せちょるが、ちっとは大きゅうなったか?」と私の体をなでました。「こそばいいっちゃ!」と逃げましたが、祖父が川でのことを知って、怪我はないかと調べてくれたのだと分かっていました。

その後も祖父はそのことを一言も言いませんでした。だから子ども心に祖父のショックと慈愛を感じてすまなく思いました。

この堰は近年取り壊されましたが、今も耳を澄ませば、堰の水音と子どもたちの歓声が聞こえてくるようです。


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