故郷もわたしも、すっかり変わってしまった。だが、変わらないものも確かにある。目を閉じて心の中を探ってゆけば、わたしの中にまだあの時の少年が生きている。満々と水をたたえた初夏の田んぼが放つ青臭いにおいも、鼻に鮮明に残っているし、泥遊びをするときに感じた土のぬくもりも、しっかり手に残っている。少年の日のわたしをしっかり抱きとめ、大きな愛の中で育ててくれた故郷はいまもわたしの心の中に生きているのだ。すでに亡くなった父や祖母の思い出も、心の中に深く刻まれて、変わることがない。年老いた母が作ってくれる手料理の味も、子どもの頃と同じだ。すべてが変わってゆく中で、いつまでも決して変わらないもの。心の奥深くにあって、いつでも帰って行ける場所。それが故郷なのかもしれない。
教会もまた、新しい福江教会ではなく、あのひなびた木造の朽ちかけた教会である。
すきま風だらけの板張りのけいこ部屋もよく登場する。
そこには繕って繕って布の固くなったスータン姿の神父さま、手編みのカーディガンを着た教え方さまがにこにことして現れる。
私にとってふるさととは、子どもの頃、心を育ててくれた小さい場所である。
飛行機で行く五島ではなく、舟に乗って行く五島である。
バス代もなく、遠い教会へ行くのに、てくてくと歩いたほこりっぽい五島の道である。
今や五島も地方都市と呼ぶにふさわしい町と化した。
しかし、先日、五島を紹介するテレビ番組を見ていたら、案内役の男性タレントが五島の人々のやさしさ、あたたかさを一生懸命伝えていて胸が熱くなった。
そうなのである。景色がきれいとか、魚がおいしいとか・・・だけではなく、人々の心が純朴なことに感動して欲しいのである。
少女の頃、神父さまに「心は地球を包めるくらい大きい」と教えていただいた。
父母には、貧しかったけれどだれにも負けないくらいの愛情を注いでもらった。
私のふるさとは新栄町の家であり、木造の粗末な教会であることをあらためて思った。