2018年09月29日の心の糧

心輝かせて

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ ある山奥の村の村長が、町にやって来て、生まれて初めて電球を見た。まばゆく輝いて夜の闇を照らす電球の力に感動した彼は、町の電気屋で電球をたくさん買って帰った。ところが、それらの電球は、彼の村では輝くことがなかった。なぜなら、彼の村にはまだ電気が通っていなかったのだ。

人間も、電球のようなものだと思う。どれだけ大きな力を秘めた電球も、電気なしでは決して輝くことができないのと同じように、どれだけ大きな力を秘めた人間も、自分だけでは決して輝くことができない。勉強して資格をとったり、お金を稼いで着飾ったりしても、人間は決して自分だけでは輝くことができないのだ。

人間を輝かせるために必要な電気、それは人と人とがつながるときそこに生まれる、目に見えない愛だと思う。人間は、誰しも光り輝く力を秘めているが、その力が発揮され、まばゆく輝きはじめるのは、愛という電気が通ったときなのだ。誰かから愛されている、自分はかけがえのない存在だ、自分の人生には意味がある。心の底からそう思えたとき、その人の顔は輝きはじめる。

人間の不幸の多くは、最初に紹介した村の村長のように、電球がそれ自体として輝くことができると思い込むことから生まれるように思う。自分のことだけを考え、自分を磨き、自分を飾りたてることばかりに夢中になっている限り、わたしたちは自分の命を輝かせることができない。自分のことばかり考えるのをやめ、周りの人に心を開いたとき、家族や友人、そして神様とのあいだにしっかりと絆を結んだとき、わたしたちの心に愛という電気が流れる。そのとき、わたしたちの命はまばゆい輝きを放ち始めるのだ。輝きは、つながることからうまれる、そのことを忘れないようにしたい。

2018年09月28日の心の糧

心輝かせて

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ カタバミという小さな多年草をご存知だろうと思う。10センチに満たない丈で、可憐な黄色い花とハート型の葉をつける。クローバーに似ているが、雑草なので、庭に生えたら、むしられてしまうかもしれない草花だ。

ところが、カタバミの花言葉は「輝く心」なのである。花言葉がどのように決められるかは知らないが、はっとさせられる命名ではないだろうか。抜かれ捨てられがちなものが心の輝きだとは、皮肉であるが、それでも、小さな草が誇りをもって、与えられた生命に輝く姿が想像できるのである。

人間にとって、輝きとは何だろう。輝かしい業績、輝くばかりの美貌、勝利に輝く・・こうしたものなら分かりやすい。なぜなら、これらは目によく見える。だが、心の輝きと言われると、よく分からない。心は見えない場所にあるからだ。ちょうど、大切なものが人目に曝されず、奥まったところにしまっておかれるように。ただ、心がなした仕事が形になるのを、私たちは見るのである。

小さなカタバミにならうとすれば、心の輝きとは、ささやかな自分に誇りと自負心を持つことだ。自分以上のものを望まない。見栄を張ったり、嘘をついて自分をよく見せようとしたりしない。そして、与えられた自分自身を発揮して、善きものへ向かう時、見えない心は輝くのではないかと思う。

カタバミは繁殖力の強い植物だそうだ。一度根付くと、除去するのが難しい。小さな草花の根が、見えない地面の下で逞しいように、私たちの心も光の方角を知り、強く輝いていたいと願っている。


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