原則、子供たちの制作態度は評価しても作品の評価はしない、世界の名画について、子供たちに紹介し評価させるというユニークな方法で、3歳児から指導していましたが、10年を過ぎるころから成人の入会が相次ぎ、現在は大人だけになりました。私自身画家になり、国際展などで評価される立場であり、一方、国内では、児童画はもとより団体の公募展の審査員を務めることも度々です。
評価される場合、素直に嬉しい場合と、作者として見てほしい処と噛み合ず違和感を覚えることもあります。
評価する側に立った時は、出来るだけ、作品を通して見えてくる作者を捜すことを心がけます。公平を期すために年齢も性別も伏せて、作品番号だけで審査する場合が多いのですが、後で私がこんな作者ではというと大抵当たっていて、主催者から「よくわかりますね」と言われます。色彩、構図、描写力で技量と作品傾向は解りますが、それだけで評価はできません。まず、モチーフに作者の趣味や生活感が現れ、サイズと画材の扱いから年齢やキャリアを察し、テーマがありメッセージが感じられれば作者登場です。
何事も表面的な評価ではなく本質に迫りたいものです。
救急車で病院へ運ばれた息子は集中治療室に入り、人工呼吸器をつけて3日間眠ることになりました。息子がどうなるかわからない不安の中で、私は病院ロビーの暗がりで泣き崩れる妻の姿を見て、最悪の事態を想定しました。普段は妻に助けられてばかりで頭の上がらない私も、消え入りそうなほど小さくなった妻の肩に手を乗せると、「周ちゃんの生命力を信じよう、一緒に闘おう」と、声をふり絞りました。
夜は明け、妻と私は思いつくまま日頃助けていただいている人々に、電話やメールで「お祈りをお願いします!」と頼みました。何もしてあげられない親としては、人々のお祈りにすがることしかなかったのでした。皆さんのお祈りの輪に支えられながら、病院の医療チームの懸命の尽力により、息子は後遺症もなく、3週間後には退院のメドがつくまでに快復しました。
ほっとしたのも束の間、今度は妻の父が肺炎を起こし、別の病院の集中治療室に運ばれました。私と妻は駆けつけてくれた親族や友人の方々と最善の治療の選択を模索しながら、お互いの絆が育まれてゆくのを感じました。
一命を取り留めた父親の面会を終え、息子の面会へと向かう夕暮れ時、「凸凹夫婦の僕等も、この1ヶ月は頑張ったよね...」と呟く私に、妻は静かに顔を向け、頷きました。