「わたしとしたことが、これしかできなかった」という考え方をしてしまいがちな人は、そのような考えが浮かぶたびごとに、「これだけできれば、わたしとしては上出来だ」と考えなおすように心がけたらいいだろう。「わたしとしたことが」という言い方には、ある種の傲慢が潜んでいるからだ。「わたし」がいったい、どれほどのものだというのだろうか。自分が出した成果を、自分にとっての精一杯の成果として素直に受け入れ、喜ぶ謙遜さを持ちたい。そうでなければ、自分がかわいそうだ。
渡辺和子さんが「思った通りにならなくて当たり前。思ったとおりになったら感謝しなさい」とよくおっしゃっていた。これは、自分自身にも当てはまることだろう。思った通りにならない自分に、不満ばかり言っても仕方がない。思った通りにならなくて当たり前、むしろここまで出来たことに感謝する。そんな風に考え方を変えられれば、いまよりもっと幸せに生きられるに違いない。
「なんの、ミンコよい。神さまが決めることじゃのうて、人間が決めることじゃけん。そのうち、神さまがミンコの書く力ば認めてくれたら、人間どんも認めてくれるとたいね」
自分の娘に文学的な才能があるのかどうだかわからないのに、そういって慰めてくれた。「そうか」と私は納得した。
神さまが時期が早いと判断したのだなあと。
それ以来、何があっても、神さまがそうされたのだと思うことが出来、気持ちが楽であった。
息子が高校受験の折、第一志望の高校に受からなかった。息子は嘆き悲しんだが、私は息子にいった。
「あそこの高校はあんたに向かんかったんやわ。あんたが入れた高校が1番、あんたに向いてると思う。お母さんは神さまに、息子に1番向いてる高校に合格させてくださいといって祈ってたから。」
息子は別の高校に合格し、機嫌良く通った。
「おかあさん、あそこ、落ちててよかったわ。秀才ばっかりやから、ぼく入ってても劣等感感じてたかわからへんからね」と息子なりに納得したようだった。
競争社会で相対評価が当り前のようになっているが、私は相対評価は好きではない。
人間が人間をどう評価できるのかといつも疑問に思う。神さまが評価してくれると思うと気持ちが大きくなり、楽に生きていける。