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片柳 弘史 神父

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他人が何か成果を上げたときに褒めるのは得意だが、自分自身が何か成果を上げても、なかなか満足できない。そんな人は、意外と多いのではないだろうか。わたし自身にも、そんなところがある。人のことは客観的に評価できても、自分については評価が偏ってしまう。自分に対する評価が、あまりにも厳しすぎるのだ。

なぜそんなことになるかと言えば、それは自分への期待が大きすぎるからだと思う。「自分はもっとよくできるはずだ」と思い込んでいるから、自分の思ったとおりの成果を挙げられない自分に腹が立つ。自分に大きすぎる期待を持っている人は、自分を褒めることができず、もっと大きな成果を求めて自分を追い詰めてゆく。

「わたしとしたことが、これしかできなかった」という考え方をしてしまいがちな人は、そのような考えが浮かぶたびごとに、「これだけできれば、わたしとしては上出来だ」と考えなおすように心がけたらいいだろう。「わたしとしたことが」という言い方には、ある種の傲慢が潜んでいるからだ。「わたし」がいったい、どれほどのものだというのだろうか。自分が出した成果を、自分にとっての精一杯の成果として素直に受け入れ、喜ぶ謙遜さを持ちたい。そうでなければ、自分がかわいそうだ。

渡辺和子さんが「思った通りにならなくて当たり前。思ったとおりになったら感謝しなさい」とよくおっしゃっていた。これは、自分自身にも当てはまることだろう。思った通りにならない自分に、不満ばかり言っても仕方がない。思った通りにならなくて当たり前、むしろここまで出来たことに感謝する。そんな風に考え方を変えられれば、いまよりもっと幸せに生きられるに違いない。

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今井 美沙子

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21、2歳の頃、ある文学誌の賞の最終審査に残ったことがあった。

若い私は自分の実力もかえりみず、ひょっとしたら賞をもらえるかもしれないと期待に胸をふくらませた。

しかし、賞はいただけなかった。

そのとき、五島の父のいったことばを、50年も前のことなのに、私はよく覚えている。

「なんの、ミンコよい。神さまが決めることじゃのうて、人間が決めることじゃけん。そのうち、神さまがミンコの書く力ば認めてくれたら、人間どんも認めてくれるとたいね」

自分の娘に文学的な才能があるのかどうだかわからないのに、そういって慰めてくれた。「そうか」と私は納得した。

神さまが時期が早いと判断したのだなあと。

それ以来、何があっても、神さまがそうされたのだと思うことが出来、気持ちが楽であった。

息子が高校受験の折、第一志望の高校に受からなかった。息子は嘆き悲しんだが、私は息子にいった。

「あそこの高校はあんたに向かんかったんやわ。あんたが入れた高校が1番、あんたに向いてると思う。お母さんは神さまに、息子に1番向いてる高校に合格させてくださいといって祈ってたから。」

息子は別の高校に合格し、機嫌良く通った。

「おかあさん、あそこ、落ちててよかったわ。秀才ばっかりやから、ぼく入ってても劣等感感じてたかわからへんからね」と息子なりに納得したようだった。

競争社会で相対評価が当り前のようになっているが、私は相対評価は好きではない。

人間が人間をどう評価できるのかといつも疑問に思う。神さまが評価してくれると思うと気持ちが大きくなり、楽に生きていける。


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