例えば、余り声を出さない子供に「あなたは、声をかけた人に、素晴らしいほほえみで対応したで賞」、食が遅くて、余り食べない子供に「好きなものだけはしっかり食べたで賞」、そして、こつこつと掃除をまじめにやってくれた子供に「あなたの隠れたところを掃除する力は天下一で賞」などです。
この日間MVPを特に導入したのには訳があります。目立つということが脚光を浴び、それがただ一つの価値であるような雰囲気がそのときの社会にあったのです。1人1人のユニークさは、十把一絡げの評価ではなく、その人に向けた独自の基準があってもよいのではないか、そうでないと、子供達は知らないうちに枠にはめられてしまうのでは、と考えたからです。
この時のリーダー達も大賛成で、子供達も、この不思議なMVPを受け入れ、今日は誰がもらうのだろうと、わくわく顔でした。
皆が一緒になって、子供達の隠された個性を浮かび上がらせる、素晴らしい夏のキャンプとなりました。
だが、悩まされるのは他人からの評価である。懸命に努力していても、周囲に届くとは限らない。私も小学生の時、道徳の筆記試験で満点に近い点を取ったら、クラスメートに「点の方が良すぎる」と言われて泣いたことがあった。つまりは、日頃の行いが伴っていないから、良い点にはふさわしくない、人間としての価値はもっと下である、という厳しい評価を貰ったわけである。教科担当のシスターに「謙遜になるからいいのよ」と慰められたが、一体どうすればいいの、という気持ちであった。
理想は自分自身からも、周囲の人々からも、そして社会からも評価されることだ。それは小学生に難しく、大人にとっては更に困難な課題であるに違いない。
だが不思議なことに、私たちは人に勝ち、高い評価を得ようともそれだけでは満ち足りることができないようである。努力をしてきた人ほど、人の世の評価が全てではないと悟るのかもしれない。
その時、魂は私たちに何と囁いてくれるだろうか。